塾で教える日本の歴史 ⑧ 律令国家の誕生(飛鳥時代2)
大化の改新
7世紀初め、隋にかわって中国を統一した「唐」は強大な大帝国でした。
これに対抗するため、日本でも抜本的な国家改造が必要になりました。
蘇我氏は聖徳太子の息子である山背大兄王一族を殺すなど、独裁的な政治を行っていましたが、
これを倒し、新しい国家体制を作ろうと
中大兄皇子(後の天智天皇)は中臣鎌足(後の藤原鎌足)と共にクーデターを起こします。
蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子を倒したこの政変を「乙巳の変」といいます。
その後「改新の詔」をだし様々な改革を行ないます。
この一連の改革を初めて使われた年号をとって「大化の改新」といいます。
「虫殺し(645)大化の改新」
大化の改新の内容は主に公地公民と国郡制度に班田収授です。
・公地公民・・豪族が支配していた土地と人々は国家(天皇)のものだ、ということです。
・地方を国と郡に整備しなおしました。
・班田収授法・・戸籍と計帳を作成し公地を公民に貸し与えました。
・租・調・庸等の税制を整えました。
律令制度の基礎は大化の改新にて整えられたということです。
白村江の戦い
百済は日本と親しい国でしたが、660年新羅と唐の連合軍に滅ぼされてしまいました。
百済が滅ぼされると次は日本が危ないと恐れた中大兄皇子は、百済再興を目指し朝鮮に出兵します。
しかし新羅・唐の連合軍に敗れてしまいます。これを白村江の戦いといいます。
「白村江、ム!無残(663年)日本敗北」
百済という防波堤が無くなった日本は、唐の進軍に備えて大宰府に「水城」西日本の各地に「山城」を築きます。
中大兄皇子は都を滋賀県大津の宮に移し、ここで即位し天智天皇となります。
読み方は「てんじてんのう」です。「てんち」ではありません。
天智天皇は「庚午年籍」という初めての戸籍を作り、内政にも力をいれました。
壬申の乱
天智天皇が亡くなった後、息子の「大友皇子」と天智天皇の弟である「大海人皇子」とが後継をめぐって争いました。
672年、遥か930年後にも天下分け目の戦いが行なわれた「関ヶ原」で両陣営が激突します。
関ヶ原は日本の真ん中ということなのでしょうか。新幹線でこの辺りを通るたび、2つの天下分け目の戦いを思って感概深いものがあります。
戦いは大海人皇子が勝利し天武天皇となり、飛鳥浄御原宮に都を移し、日本最初の律令「飛鳥浄御原令」の作成を命じました。
この古代の後継争いを「壬申の乱」といいます。
「天智の後、無難に(672年)に行かない壬申の乱」
天武天皇の死後、その皇后(天智天皇の娘)が「持統天皇」として即位し、
初の本格的な都「藤原京」や初の金属貨幣「富本銭」を作りました。
大宝律令
天武天皇・持統天皇から8世紀初頭の文武天皇の頃、「日本」という国号や「天皇」の名称を使い始めたとされています。
そして、文武天皇の時701年、藤原不比等らが中心となり、唐の法律にならった「大宝律令」が作られ全国支配のしくみが整います。
「天皇も律令制度に慣れ始め(701年)」
「律」は刑罰の決まりで、「令」は政治の決まりをさします。
中央には、行政を司る太政官と祭祀を司る神祇官がおかれ、太政官の元で八省が政務を分担しました。
九州には「大宰府」東北には「多賀城」がおかれ、外交防衛にあたりました。
地方には、国・郡・里が置かれ、役所である「国府」には都から派遣された国司が地方豪族の郡司を指揮して政治を行ないました。
班田収授法
班田収授は、大化の改新後に行なわれ、大宝律令で制度的に整いました。
6年ごとに作られる戸籍をもとに、6歳以上の男女に口分田を与えました。
良民の男子は2段、女子はその3分の2、家人・奴婢には良民の3分の1の口分田が与えられ、死亡すれば国に返させました。
(6歳で自分の田が貰えると喜んではだめで、税(租)を負担しないといけないわけです。)
租調庸の税制は細かく覚えておきましょう。
租・・・収穫量の3%の稲
調・・・成年男子に、労役の代わりに布を都まで運ばせる(九州は大宰府まで)
庸・・・成年男子に、地方の特産物を都まで運ばせた。
この他、3年間九州の警備をする「防人」や年60日の労働をする「雑徭」もありました。
3%の租というと、現在の消費税より軽いですが、防人や雑徭は厳しいですね。