塾で教える日本の歴史 ⑩ 平城京(奈良時代)
平城京
710年天智天皇の娘、元明天皇は唐の長安をモデルにして奈良に平城京をつくりました。
「なんと(710年)きれいな平城京」
平城京は、朱雀大路を中心に碁盤の目のように道路がはしる本格的な都で、約10万人の人口がありました。唐招提寺・薬師寺・興福寺・そして東大寺など大きなお寺が多いのが平安京との違いです。
710年平城京遷都から794年平安京遷都までの約80年を奈良時代といいます。意外と短いですね。
奈良時代は、藤原氏が勢力を伸ばした時代です。
大宝律令を作った藤原不比等は娘を文武天皇に嫁がせ、
その子聖武天皇にも娘の「光明子」を嫁がせて、天皇家と密接な関係を築きました。
皇族の「長屋王」が政権を握ると、不比等の子4人は策謀によって長屋王を殺しました(長屋王の変)
「なにくそ(729年)負けるな長屋王」
さて、このあたりの権力争いも大変面白いのですが、それは高校日本史に任せて、聖武天皇の話です。
聖武天皇
聖武天皇と光明皇后は、仏教の力に頼って国を守ろうと、国ごとに国分寺・国分尼寺を、都には東大寺を建て、金銅の大仏(盧舎那仏)を作りました。
この時民衆に布教活動を行なっていた「行基」が大仏建立に協力しました。
仏教の力で国家を安定させようとする考えを「鎮護国家」の思想といいます。
聖武天皇のころの文化を「天平文化」といいます。朝廷は「遣唐使」を度々派遣していたので、天平文化は「仏教と唐」の影響が強いものでした。
また「東大寺の正倉院」には聖武天皇の使用した道具や楽器などの宝物を保管しており、中にはシルクロードを通ってペルシャやインドから伝わったものもあります。
他にも興福寺の「阿修羅像」は今日でも人気があります。
奈良時代では、遣唐使とともに来日し、何度も遭難し盲目になった唐の僧「鑑真」が有名です。彼は「唐招提寺」を建立しました。
「泣こうよ(754年)鑑真、いや泣かぬ」
三世一身の法と墾田永年私財法
奈良時代には、鉄製の農具が広まり、人口が増加していったため口分田が不足してきました。
そこで朝廷は、723年新しく開墾した土地は三代まで私有を認める「三世一身の法」、743年永久に私有を認める「墾田永年私財法」をだしました。
墾田永年私財法は長いですが、漢字できちんと書けるようにしておきましょう。
「なにさ!(723年)三世の一身くらい!怒」
「なじみ(743年)の墾田永年私財法」
墾田永年私財法の意味は「公地公民」が崩れるということです。
貴族や大きな寺院は農民を使って開墾を行なったり、墾田を買い取ったりして私有地を広げました。
貴族や寺院の私有地はやがて荘園と呼ばれるようになりました。
奈良時代の歴史書と万葉集
9の「神話」のところで紹介した「古事記」と「日本書紀」の歴史書以外に
地方の国ごとに自然・産物・伝説を記した「風土記」や大伴家持がまとめた和歌集「万葉集」があります。
万葉集には天皇や貴族だけでなく農民や防人の歌など4,500首の和歌がおさめられています。
山上憶良の「貧窮問答歌」が有名ですね。
矢頭嘉樹