塾で教える日本の歴史 ⑫ 武士の誕生と院政(平安時代2)
武士の登場
平将門・藤原純友の乱
10世紀には、律令制度が行き詰まり、班田収授や戸籍制度も維持できなくなっていきました。
地方では、有力な農民が開墾にはげんで領地を広げ、豪族として勢力を伸ばしました。
都では、朝廷の武官が貴族の身辺や屋敷の警護を行い、実力を認められていきました。
このような地方の豪族と中央の武官の交流のなかから、武士がおこったと考えられています。
武士はやがて、従者を組織して武士団をつくりあげるほどに成長していきました。
武士は館を築いて土地の開発を進め、領地を中央の貴族や寺社に寄進して「荘園」とし、その保護を受けて勢力を広げました。
有力貴族の力を背景に税の免除や役人の立ち入り調査を認めない荘園も多くなり(不輸不入の権)中央の収入が減り、政治が不安定になりました。
935年には関東では平将門が、939年には瀬戸内地方で藤原純友が武士団を率いて反乱をおこしました。
この時は朝廷も武士団の力を使って反乱を鎮圧することができました。
この二つの武士の反乱を合わせて「承平・天慶の乱」といいます。いずれも藤原道長が摂政になる前のできごとであるのは覚えておきたいところです。
源氏と平氏
有力武士団の中で天皇の血を引く「源氏」や「平氏」を棟梁として、「武家(軍事貴族)」が大きな勢力を持つようになりました。
「清和天皇」の血を引く清和源氏は東日本に、「桓武天皇」の血を引く桓武平氏は西日本に勢力を広げていきます。
11世紀後半に、東北地方であいついで大きな戦乱がおこりました。これを鎮めたのが源氏の源義家です。こうして、源氏は東日本に大きな力をもつようになったのです。
この戦乱ののち、東北地方では、奥州藤原氏が勢力をもつようになり、約100年間、三代にわたって栄華を極めました。
奥州藤原氏は世界遺産にも登録された「平泉の中尊寺金色堂」や源義経が逃れたところとしても有名ですね。
松尾芭蕉の「奥の細道」でも描かれました。 「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」
武士の定義は難しいですが、平安時代においては「武士とは、朝廷や国衙から職業的な戦士身分と認められた人びと」でありました。
源氏物語の主人公「光源氏」は天皇の子供であり、臣下に下り源氏の姓をいただきますが、どうみても武士ではありませんね。
院政
藤原氏の摂関政治は娘を天皇に嫁がせ、その子を天皇にして外戚として権力をふるうというものでしたが、
藤原氏の皇后に男の子が生まれず、藤原氏との関係がうすい後三条天皇が即位しました。
後三条天皇は、優れた人材を登用する一方、荘園の増加が公領(国衙領)を圧迫しているとして、「延久の荘園整理令」をだし、効果を収めました。
後を継いだ「白河天皇」は、天皇の位をゆずった後も「上皇」となって政治を行いました。
上皇やその住まいは「院」と呼ばれましたので、この政治は「院政」と呼ばれました。
藤原氏の摂関政治は天皇の「母方の祖父」だったのに対し、「院政」では上皇は天皇からみて「実の父親」ということになります。
上皇が出家すると「法皇」とよばれます。
院政が行われるようになったころから「中世の時代」に入ります。
「白河院、良い ひとやろ?(1086年)」 関西弁ですね。
院政は鎌倉時代の始まりまで、白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇と100年あまり続きました。
上皇は、税の免除などを荘園に与えたので、院の周辺に荘園が集中しました。
保元・平治の乱
院政の時代には、元天皇や上皇・法皇がたくさんいるという状況になってきました。しかし実際に権力があるのは一人ですので、その人を「治天の君」とよびます。
白河上皇は院の権力増大のために武士を側近に取り込み、院の周囲を警備する武士は「北面の武士」と呼ばれました。
さて天皇や上皇の権力争いから「保元の乱・平治の乱」という二つの内乱がおきました。
保元の乱は、崇徳上皇対後白河天皇の争いに、藤原氏・平氏・源氏それぞれが二つに分かれて争い、天皇方が勝ちました。
「天皇がそろそろ勝っても いいころ(1156年)だ」
負けた崇徳上皇は讃岐に流されました。
崇徳上皇では私の大好きな歌が百人一首に残されています。
「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」
「川の流れが速いので岩にせき止められた急流が、2つにわかれてもまた一つになるように、愛しいあの人と今は別れてもいつかはきっと再会しようと思う」
ロマンチックですね。
続く1159年の「平治の乱」は、平氏と源氏の争いで、平清盛が源義朝を破って勢力を広げました。
平清盛
平清盛及び平氏政権で知っておきたいこと
・最初の武家政権であった・・西国の武士を家人にし、地頭に取り立てた。
・日宋貿易・・兵庫の港を整備し(大輪田泊)、宋との貿易で利益を得た。
・貴族的性格を持つ政権・・後白河上皇を支援し、娘を天皇の妃にし、藤原氏と同じように外戚として威勢をふるった。
一族で朝廷の高位・高官を独占した。
「平家にあらずんば 人にあらず(平時忠)」
平清盛は武士で初めて太政大臣になりました。 「平清盛 いい胸毛(1167年)」
源平合戦
栄華を誇った平氏ですが、朝廷を思うがままに動かし、貴族的な振る舞いを見せたため、貴族や武士の反感を買いました。
平清盛に後白河法皇が幽閉されると皇子の「以仁王」が兵をあげ、また武士の支持を集めて源頼朝は関東を統一し、弟の源義経を送って平氏を追い詰めていきます。幼いころ「牛若丸」とよばれた義経は戦いの天才で、一の谷、屋島の合戦を経て「壇ノ浦の戦い」で平氏を滅亡させました。このあたりはテレビや映画で繰り返し映像化されています。源氏は白旗で、平氏は赤旗で戦ったので、今も運動会や歌合戦などでの紅白の起源ともなりました。
平家物語の冒頭は暗唱しておきましょう。
「祇園纆舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。
娑羅(しやら)雙樹の花の色、盛者(じやうしや)必衰のことはりをあらはす。
おごれる人も久しからず、只春の夜(よ)の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。」
矢頭嘉樹