塾で教える日本の歴史 ⑬ 鎌倉幕府(鎌倉時代)
源頼朝
「鎌倉殿」と呼ばれた頼朝は、朝廷から独立した「武士の政権」を目指し、武士たちの領地を保障し、政治に参加させようとしました。
ところが義経は朝廷から冠位を貰うなどしたので、頼朝は義経を追い詰めます。義経は奥州藤原氏のもとに逃れたので、頼朝はこれを滅ぼし全国を軍事支配しました。義経が逃れた奥州藤原氏の拠点「平泉」は2011年世界遺産に登録されています。
鎌倉幕府の成立時期は、今は1185年が一般的です。
国ごとに「守護」を、荘園や公領ごとに「地頭」をおくことを朝廷に認めさせた時期です。
「いいはこ(1185年)作ろう鎌倉幕府」
また1192年には征夷大将軍に任命されました。
「いいくに(1192年)作った鎌倉幕府」
鎌倉幕府の機構は、中央に「御家人を統制する侍所」「一般政務を司る政所」「裁判を担当する問注所」がおかれ、地方には守護と地頭がおかれました。
このような土地を仲立とする主従関係を「封建制度」といいます。
承久の乱
鎌倉幕府の勢力拡大に対し、後鳥羽上皇は荘園を手中におさめ、西面の武士をおいて朝廷の勢力拡大をはかりました。
白河上皇が「北面の武士」後鳥羽上皇が「西面の武士」です。
鎌倉幕府の第3代将軍「源実朝」が暗殺されると、後鳥羽上皇は、2代執権北条義時を倒そうと兵をあげました。承久の乱です。
「ひとに ふいうち(1221年)承久の乱」
この時頼朝の妻「北条政子」は頼朝の恩を説いて、武士たちに結束を促しました。
「みなの者、よく聞きなさい。頼朝公が朝廷の敵を倒し幕府を開いてこのかた、官職といい土地といい、その恩は山より高く、海より深いものでした。みながそれに報いたいという志はきっと浅くないはずです。名誉を大事にするものは、京都に向かって出陣し、逆臣を討ちとり幕府を守りなさい。」という名演説で御家人がまとまることにより、幕府は後鳥羽上皇を打ち破りました。
演説でいう「逆臣」とは直接に後鳥羽上皇のことではなく、その側近のことですが、後鳥羽上皇は幕府が逆らうとは考えてもいなかったでしょうね。後鳥羽上皇は隠岐島に流されました。
この後幕府は京都に朝廷監視と西国支配のため「六波羅探題」を置きました。六波羅探題は名前がかっこいいと中学生に人気です。
執権政治
鎌倉幕府の将軍源氏は3代で滅びてしまいましたが、これに代わって幕府は藤原氏から将軍を迎えたり(摂家将軍)、皇族から迎えたり(皇家将軍)しました。
しかし幕府の実権は北条氏が握っていきました。
鎌倉幕府の将軍の補佐役は「執権」といい、北条氏が独占していました。摂関時代の「摂政・関白」と同じような状態ですね。
しかし、その執権よりも権力があったのは、「北条氏の長者」つまり「得宗」だったのですから、
日本の権力構造は「天皇→摂関→将軍→執権→得宗」と五重になっています。
鎌倉幕府の将軍補佐役は「執権」
室町幕府は「管領」
江戸幕府は「老中」というので、間違わないようにしましょう。
また室町幕府は「足利幕府」江戸幕府は「徳川幕府」ともいいますが、鎌倉幕府は「源氏幕府」とはいいません。
源頼朝が創設した鎌倉幕府ですが、桓武平氏の末裔である北条氏が実権を握っていくというのも面白いですし、北条氏が将軍にならなかったのは藤原氏に習ったのかと思ってしまいます。
武士の生活
「泣く子と地頭には勝てぬ」ということわざがあるように、地頭は土地や農民を勝手に支配することが多く、地頭と領主の間には争いが度々起こりました。
幕府はこれを裁き、土地の半分が地頭に与えられたり(下地中分)、地頭が年貢を請け負って領主に収めたり(地頭請)しました。
地頭である武士は住居兼砦の機能を持つ「館」を構え、周囲には堀や塀をめぐらし、一族の長である「総領」が中心となって団結していました。
武士は常に馬や弓道などの鍛錬をし、名誉を重んじる「もののふの道」に励みました。
彼らは一族の子弟・女子たちに所領を分け与える「分割相続」を原則としていました。 ←テストにでたよ!
当時の家族制度では、女性の地位も比較的高く相続でも男性と同等であり、女性の地頭もいました。
しかし新しい領地を獲得しない限り、こういった分割相続は行き詰りますので、後には崩れていきます。
御成敗式目
1232年第3代執権「北条泰時」は、武家の最初の整った法典である「御成敗式目(貞永式目)」を制定します。
これは、守護や地頭の任務と権限、御家人の争いを裁く基準を定めたものです。
守護の役割は「京都の御所の警備と犯罪人の取り締まり」と定められました。
「ひとのにいさんに(1232年)なにをする、御成敗式目で裁かれるぞ」(字余り)
鎌倉時代の庶民の生活
農業では、牛や馬が利用され、鉄製の農具が普及し、草や木を焼いた灰が肥料として使われ、米の裏作に麦を作る「二毛作」が行なわれるようになりました。
農民の団結が強まり、和歌山県アテガワショウの農民が地頭の横暴を領主に訴えた訴状が残されています。
寺社の門前や交通の便が良いところでは、定期市が開かれるようになりました。(月に三度の三斎市)
同業者の団体「座」・運送業者の「問丸」・金融業者んの「借上」の他、宋銭や為替も使われました。
鎌倉文化と鎌倉新仏教
・和歌集・・・新古今和歌集(後鳥羽上皇・藤原定家)
・説話集・・・宇治拾遺物語
・随筆・・・・方丈記(鴨長明)・徒然草(兼好法師)
・軍記物・・平家物語(琵琶法師)・こちらは源氏物語と違って、源平の戦いを描いた軍記物です。
・歴史物・・愚管抄(慈円)・吾妻鏡(鎌倉幕府の歴史)
・彫刻・・・・東大寺南大門金剛力士像(運慶・快慶)
鎌倉新仏教は開祖と宗派だけでもいいでしょうが、一応特徴や著作も。
・法然・・浄土宗・・専修念仏・・南無阿弥陀仏
・親鸞・・浄土真宗(一向宗)・・他力本願・・悪人正機説(悪人こそ救われる)・・歎異抄・・いっこうに知らん
・一遍・・時宗・・踊念仏・・いっぺんじしゅう
・栄西・・臨済宗・・禅問答(公案)・・えいさいりんさい
・道元・・曹洞宗・・只管打座(ひたすら座禅)・・正法眼蔵・・そうとうどうげん
・日蓮・・日蓮宗・・題目・・南無抄法蓮華経
元寇と鎌倉幕府の滅亡
13世紀初め、中国はチンギス・ハン率いるモンゴル民族に征服され、ユーラシア大陸全域に広がる「モンゴル帝国」が出現していました。
その孫「フビライ・ハン」は都の大都(北京)に定め国名を「元」として、日本に二度に渡って攻めてきました。
元軍は「てつはう」と呼ばれる武器や集団戦法で、騎馬による一騎討ちが主の武士を悩ませましたが、「神風(暴風?)」もあり日本はこれを退けました。
この2回に渡る元の襲来を「元寇」といい、時の執権「北条時宗」以下幕府の御家人の活躍がありました。
「文永に、元の 意地なし(1274年)舟沈む」 文永の役
「元軍の 人には言(1281年)えぬ負け戦」 弘安の役
しかしこの元寇が鎌倉幕府滅亡の原因ともなります。
蒙古襲来を機に北条氏は博多に「鎮西探題」をおき、北条氏の家督を継ぐ「得宗」の力が強大となり、「得宗専制政治」を行ないます。
元寇で元軍を退けたものの、敵の領地を奪ったわけではなく、追い返しただけなので幕府には「奉公」にみあう「御恩」で報いることができませんでした。
御家人は多大な犠牲を払ったものの見返りも少なく、また「分割相続」の影響もあり窮乏していきました。
幕府は御家人救済のため、借金を帳消しにする「徳政令」をだしましたが、あまり効果はなく、北条氏への反感が強まりました。
こうした状況で「後醍醐天皇」は政治の実権を朝廷に取り戻そうと、「楠木正成」や「足利尊氏」の力もあり、鎌倉幕府を滅ぼしました。
「いちみさんざん(1333年)北条氏滅亡」
矢頭嘉樹