塾で教える日本の歴史 ⑰ 江戸幕府の誕生(江戸時代 1)

「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 すわりしままに食うは徳川」

これは江戸時代の落首(風刺歌)で、
織田信長が餅をつき、ついた餅を羽柴(豊臣)秀吉がこね、できた餅を何もしなかった徳川家康が座ったままそれを食べた。ということで信長が苦労して乱世を終息させようと天下統一事業を進め、それを受け継いだ秀吉がやっと天下を統一し、家康が何の苦労もなくそれを引き継いだということです。先人が苦労して築いたものを、家康がやすやすと簡単に手に入れたと詠んでいるものですが、家康を過小評価しているものでしょう。江戸時代260年間がどんなに平和だったか、明治時代と比べてみるとよく分かります。江戸時代が本当はどんな時代だったか、これから見ていきましょう。

関ヶ原の戦い

豊臣秀吉の死後、幼少の秀頼とその母淀殿が残されました。

信長の妹「お市の方」は戦国一の美女とされていますが、お市と浅井長政の間に有名な3姉妹がいます。

長女が「茶々」後の「淀殿」、秀吉の側室で「大阪冬の陣・夏の陣」で家康によって自害に追い込まれています。次女が「お初」で、京極高次の正室となっています。また3女の「お江」はNHK大河ドラマ「お江〜姫たちの戦国」で主人公にもなっており、徳川2代将軍「秀忠」の正室であり、3代将軍「家光」の母になっています。次女が「お初」というので、茶々が本当に長政の長女なのか、追求したいところです。

さて秀頼が幼少だったため、政治は「秀吉が任命した武断派の五大老」と「秀吉子飼いの官吏・五奉行」の合議制で進みました。

しかしながら五大老の1人徳川家康の力が抜きんでて、秀頼をないがしろにしたことなどから、五奉行の1人「石田三成」が立ち上がりました。

こうして全国の大名は、1600年、三成を中心とする西軍と家康率いる東軍が、日本の真ん中である岐阜県の「関ヶ原」で天下分け目の戦いを行ないました。関ヶ原の戦いです。

関ヶ原の戦い武将たちの兜の独特さも目を引きます。石田三成の「総髪天頂脇立」や黒田長政の兜、それに大谷吉継の「白頭巾に仮面」が有名ですね。

大谷吉継といえば、石田三成との友情が泣かせます。吉継は「ハンセン病」でした。当時は特効薬がなく、吉継の顔は崩れていたようです。それで頭巾を被っていたのですね。ある時大阪城で茶会が催され茶碗を回し飲みしていました。吉継が自分の番になった時膿が茶碗の中に落ちてしまいました。しかしそれを見ていた三成は知らぬ顔でぐいと飲みほしてしまったといいます。吉継は三成に感謝し関ヶ原でも劣勢の三成側についたということです。

決着は予想に反して6時間でつきました。どちらが勝ったか知らない生徒は塾生には、まさかいないですよね。

もちろん東軍です。

小早川秀秋の裏切りによって東軍が勝利したといわれています。また秀忠が関ヶ原に遅刻したという話も覚えておきましょう。

 関ヶ原の戦いのごろ合わせは必要ないですね。ちょうど1600年です。

この戦いに勝った徳川家康は、1603年征夷大将軍となり、江戸幕府を開きます。

 「ヒーローおっさん(1603年) 徳川家康」

この時家康は60歳を超えていました。「ヒーローのおっさん」なのか「おっさんのヒーロー」なのかはご自由に。

豊臣家の滅亡

・1605年家康は将軍職を息子の秀忠に譲り、自らは駿府に隠居しました。しかし大御所として政治の実権は譲らず、秀忠を指揮・監督しました。これは将軍職は徳川家で独占し、豊臣秀頼には譲らないということを内外に示したものです。

徳川15代の将軍は、秀忠を除く14人が征夷大将軍と同時に源氏長者に任じられ、没後に正一位を贈られています。またほとんどが、生前または没後に太政大臣まで昇進しています。

秀忠は関ヶ原に遅刻したり(徳川本隊を温存する家康の作戦だったという説もありますね)、正室のお江に頭があがらなかったり、家康から見て、できが良くなかったのでしょうか。(私は好きですが)

大阪冬の陣・夏の陣・・・徳川幕府が成立したものの、大阪城には豊臣秀頼と淀殿がいます。豊臣家を慕う人は依然として多いので、家康は計略を用いて、1614年と1615年の二度にわたり大阪城を攻め、豊臣家を滅ぼしました。この戦いを「大阪冬の陣・夏の陣」とよびます。この戦いでは「真田幸村」の活躍がありましたが、結局淀君と秀頼は自害し、豊臣家は2代で滅亡し、徳川家の天下が確定しました。この時の無慈悲な行動が家康の不人気に繋がっているのでしょう。

豊臣家を滅ぼした家康は翌1616年75歳で死去しました。

・幕藩体制の確立

幕府は1615年「武家諸法度」を制定し、全国の大名を統制しました。

 「大名の 異論以後(1615年)だめ、武家諸法度」

江戸時代の大名とは、将軍から1万石以上の領地を与えられた武士のことで、大名の領地とその支配の仕組みを「藩」といいます。

幕府と藩で全国の土地と人民を支配する政治体制を「幕藩体制」とよびます。

これは大名たちの自治を認める地方分権的な統治システムでした。

藩の力も強いのですから、江戸時代は中央集権ではなく、地方分権であったと考えられます。

大名には3種類あります。

徳川氏一門の大名を「親藩」といい、特に「尾張・紀伊・水戸」を御三家といって、将軍家に後継ぎがいないときにはここから次期将軍が選ばれました。

ただこの中で水戸家は特別で、「もし徳川家と天皇家が争うような事があれば、水戸は天皇家の味方をする」ことになっていたようです。これは徳川家の滅亡を防ぐ保険のようなもので、実際明治維新後も徳川家は存続しました。

最後の将軍「徳川慶喜」が実は水戸藩出身だったというのは何か皮肉ですね。尊王派だった水戸出身の慶喜だから、鳥羽伏見の戦いで官軍と戦うのをためらい逃げ帰ったのでしょうか。

ちなみに御三家以外に御三卿」というのがあって「田安・一橋・清水」の3家で、第8代将軍徳川吉宗が創設しました。慶喜は水戸から一橋家に移っています。

「譜代」は関ヶ原の戦い以前から徳川に従ってきた大名で、大老や老中・若年寄などは譜代に限られていました。

関ヶ原の合戦以後徳川氏に従った大名を「外様」といい、幕政には参加できず、厳しい監視を受けていました。

幕府は外様大名を江戸から遠い地域におき反逆を防いだり、藩を取りつぶしたり、領地がえをおこなったりして大名を統制しました。

幕府の直接の支配地を幕領といい、約400万石ありました。旗本・御家人の領地400万石を合わせると800万石となり、全国3000万石の4分の1以上を徳川家が支配しました。1石というのは、大人1人が1年間に食べるコメの量をいいます。

江戸時代の推計人口は、幕府開設初期が2000万人、幕末で3000万人くらいといいますので、全国3000万石というのはうなづける数字ですね。

江戸幕府の組織は譜代大名から選ばれた老中が政治の中心となり、三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)が政務を分担しました。老中は複数の人が輪番で担当し若年寄が補佐しました。重大局面には1人の大老が選ばれ局面に当たりました。幕末の「井伊直弼」が有名ですね。

大名統制のため第三代将軍「家光」は、「参勤交代」制度を定めました。これは大名に領地のほかに江戸にも屋敷を設けさせ、そこに正室と世継を江戸に定住させ、また大名を1年おきに領地と江戸を往復させるものでした。大名から妻子を人質にとり、江戸屋敷の費用や往復の経済的負担をかけることで、謀反ができないようにするものでした。

 「大名行列 色見事(1635年)」

江戸幕府はまた朝廷(天皇)も「禁中並公家諸法度」で統制しました。

朱印船貿易

徳川家康は当初海外との貿易を積極的に進めていました。

オランダ船「リーフデ号」の乗組員「ヤン・ヨーステン(東京の八重洲の元となった人物です)やウイリアム・アダムス(三浦按針)」を外交顧問としてしていたほどです。

日本船の渡航には「朱印状」を発行し、ルソン(フィリピン)・アナン(ベトナム)・カンボジア・シャム(タイ)などに商人や西日本の大名が貿易に出かけていきました。これを「朱印船貿易」といいます。室町時代の「勘合貿易」を思い出させますね。

朱印船と共に多くの日本人が海外へ移住し、東南アジアの各地には「日本町」ができました。

禁教令

家康は貿易の利益の為キリスト教を認めていました。

しかし「神の教えを絶対とするキリスト教」が全国に広がりを見せ、将軍の権威を認めなかったため幕府はキリスト教を禁じました。幕府がキリスト教を禁止したのは、将軍を認めなかったからだけではなく、中南米の例にあるように布教のあとのヨーロッパ諸国の領土的野心を見抜いていたからでもあるのではないでしょうか。

第二代将軍徳川秀忠は、禁教令を強化し、信仰を捨てないキリスト教徒を処刑しました。

1635年第三代将軍徳川家光は日本人の海外渡航を禁止し、海外に住む日本人の帰国も禁止し、朱印船貿易を停止しました。

島原・天草一揆

1637年、島原(長崎県)と天草(熊本県)の農民とキリシタンは「天草四郎」という少年を大将として一揆をおこしました。厳しい年貢の取り立てとキリシタン弾圧に対しての抵抗でした。幕府は12万もの大軍を送り乱を平定しました。

天草四郎は神の使いとされ、十代半ばの美少年であったので、女性からの人気があったということです。

 島原の 色みな(1637年) きれい 天草四郎

鎖国

鎖国の原因は2つ考えられます。

1つは、キリスト教を禁止し、スペイン・ポルトガルの侵略を防ぐため。

2つ目は、幕府が貿易の利益を独占するためです。とくに西国の大名が貿易の利益で巨大化することを恐れました。

鎖国への道

1612年 家康が幕領にキリスト教禁止令をだす。

1613年 全国にキリスト教禁止令をだす。

1616年 ヨーロッパ船の来航を長崎・平戸に制限する。

1623年 イギリスが平戸の商館を閉じる(貿易が不調のため)

1624年 スペイン船の来航を禁止する。

1633年 奉書船以外の海外渡航を禁止。

1635年 日本人の海外渡航・帰国を全面的に禁止する。

1637年 島原・天草一揆が起こる。

1639年 ポルトガル船の来航を禁止する。

1641年 オランダ商館を長崎の出島に移す。

こうして鎖国政策が完成しました。このような幕府による「禁教・貿易統制・外交独占」の体制を「鎖国」と呼んでいます。

これ以降中国とオランダだけが長崎の出島で貿易を許されました。

オランダはキリスト教の中でもプロテスタントだったので、布教には力を入れていなかったためと考えられています。

 家光は 広く鎖国(1639年) の令を出す

幕府は改宗したキリスト教徒を監視・発見するために「絵踏」を行い、「宗門改」によって、仏教の信者であることを寺に証明させました。

長崎では、役人の前でキリストや聖母マリアの像を踏む「絵踏」は毎年お正月の行事として幕末まで行われました。

鎖国下の対外関係

鎖国下でも、オランダ・中国は長崎での貿易を許されており、世界情勢報告のオランダ風説書・唐船風説書を提出させました。

また朝鮮からは「朝鮮通信使」が将軍の代替わりごとに祝賀のために来日するようになりました。

琉球(沖縄)は独立国でしたが、薩摩藩(鹿児島県)に制圧されました。江戸にも琉球使節は来ましたが、明や清にも朝貢しました。

蝦夷地(北海道)にはアイヌ民族が住んでいましたが、北海道南部を領地とする松前藩がアイヌとの交易を独占しました。

しかしこの交易はアイヌに不利な不公平なものでしたので、不満を持ったアイヌは1669年首長のシャクシャインを中心として戦いを起こしましたが、姦計によりシャクシャインは殺されました。(シャクシャインの戦い

早英ゼミナール 塾長 矢頭嘉樹

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