塾で教える日本の歴史 ⑳ 幕末の政争(江戸時代 4)

ペリーの来航

いわゆる幕末はペリーの来航から始まります。ペリーの来航が1853年、大政奉還が1867年。

ペリーの来航からわずか14年で江戸幕府は瓦解するわけです。

アジアとの交易を望んだアメリカは、東インド艦隊司令長官ペリーを日本に派遣しました。

1853年ペリーは旗艦「サスケハナ号」に乗りこみ、合計4隻の軍艦(黒船)を率いて浦賀(神奈川県)に来航しました。目的は「日本を太平洋横断航路の中継地にするため」です。捕鯨船の寄港地が必要だったということもあります。

人々はアメリカの巨大な軍艦に驚き動揺しました。

 「泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船) たった四杯で夜も眠れず」

ペリーは日本の開国を求めるフィルモア大統領の国書を幕府に差し出しました。

当時の第12代将軍徳川家慶は病に臥せっており、それを理由に幕府は1年の猶予を求め、ペリーは帰っていきました。

 「いやでござんす(1853年)ペリーさん」

混乱する幕府は、老中首座阿部正弘が大名の意見を聞いたり、朝廷に報告をしたりしたため、大名や朝廷の発言権が強まっていきました。これまで幕府は政治について朝廷や大名に相談したことがなかったため、幕府の弱体化をさらけだすことになりました。

また阿部正弘はペリーが再来するまでに、江戸防備のため砲台をつくりました。これが今人気のウオーター・フロント「お台場」です。またペリー来航後にロシアの「プチャーチン」も軍艦と共に長崎にきています。「プーチャン」ではないですよ。

日米和親条約

ペリー退去後まもなく家慶が亡くなり、13代将軍に徳川家定が就任しました。

家定は体が弱かったようで、将軍になったばかりで将軍継嗣問題がおこります。

御三家の一つ「紀州」の「慶福(後の家茂)」と御三卿の一つ「一橋」の「慶喜」の跡目争いです。

また家定の正室は有名な天璋院篤姫です。

欧米列強は、この頃軍事力で世界を支配しようとする「帝国主義」という考えで次々とアジアの国々を植民地化していました。実際欧米は日本を狙っていました。

アヘン戦争などの結果をある程度把握していた幕府は、軍事力の前に「開港やむなし」という考えになっていましたが、朝廷や大名たちは「異人打つべし」という攘夷の意見が主流でした。

翌1854年、今度は9隻の黒船と共に再び来日したペリーの開国要求に対し、全権の林大学頭(昌平坂学問所学頭)は「日米和親条約」をアメリカと結びました。

日米和親条約では通商まではせず、下田(静岡)と函館(北海道)を開港し、アメリカ船に食料や水、石炭などを供給することを認めました。

ちなみにこの時、日本で初めて「名刺」が使われたようです。「今でしょ」の「林先生」がおっしゃってました。

幕府は同様の条約をイギリス・ロシア・オランダとも結びました。

これにより1639年以来の「鎖国」は215年で終わりを告げました。

(いやまだ開国していないという意見もあります)

 いやでも ごりおし(1854年)日米和親

日米修好通商条約

和親条約の規定をもとに、アメリカは総領事ハリスを送り込みます。ハリスは江戸城に乗り込み将軍家定に謁見しました。

時の老中堀田正睦は通商を認めざるとえないと判断しますが、一応天皇の勅許を得ようと上京しました。

これまで幕府の政治に口を出すことができなかった朝廷ですが、時代は変わっていました。

攘夷を主張する孝明天皇は公家たちの意見もあって条約勅許を拒否します。

天皇から勅許を得ることに失敗した堀田正睦は失脚し、代わりに井伊直弼が大老に就任しました。

井伊直弼は、天皇の勅許を得ないまま、強引に日米修好通商条約を結びました。(1858年)

・函館・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)5港の開港(下田は閉じられました)

・この条約は「不平等条約」だったため、後ほどまで明治の日本を苦しめます。

①「領事裁判権」を認めた。外国人が犯罪を犯しても日本で裁判にかけられない、治外法権を認めてしまいました。

②関税自主権がなかった。関税とは輸入の際物品にかける税のことで、関税自主権がないと貿易で不利益になります。

領事裁判権の撤廃に成功するのは、1894年日清戦争の直前のことです。

また関税自主権の回復は1911年、大正時代に入る前年のことです。実に53年後です。

開国の影響

外国との貿易が始まると、外国からは毛織物・綿織物・武器等が輸入され、日本からは生糸・茶などが輸出されました。

ペリーやハリスを送り込み日本を開国させたアメリカですが、1961年より南北戦争がおこり、日本どころではなくなっていましたので、貿易相手国はイギリスが中心となりました。当初外国との金銀交換比率の違いから大量の金貨が流出しました。これに対抗しての貨幣改鋳や生糸の買い占めもあり、物価は上昇し日本経済は大きな打撃を受けました。

井伊直弼

大老とは老中の上に置かれる臨時職で、強い幕府の復活を期待されての就任でした。

事実井伊直弼は強引に開国を進めました。そうでないと欧米に植民地化される危険性があったのです。

アヘン戦争、アロー戦争後中国(清)は英仏の植民地化とされ、インドも「インド大反乱」後イギリスの植民地となりました。

幕府の開明派は開国し、貿易をすすめ、その利益で欧米に対抗できる軍事力を持とうとしました。

しかし朝廷の意向を無視して日米修好通商条約を結んだことに対して、外国に屈服したとして大きな批判が巻き起こりました。

それは朝廷を盛りたてようとする尊王と、外国を打ち払うべしとする攘夷が結びついた「尊王攘夷運動」に発展しました。

これに対して井伊直弼は厳しい弾圧を加えました。

安政の大獄です。(1858年〜1859年)

表は安政の大獄での処罰者です。

安政の大獄で処刑された主な人々 
人名 身分  処罰 
徳川斉昭(とくがわ なりあき) 前水戸藩主   永蟄居(永久的に謹慎)
松平慶永(よしなが) 春獄 越前藩主 隠居 
橋本佐内(はしもと さない)  越前藩士 死罪 
一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ) 一橋家当主  隠居 
徳川慶勝(とくがわ よしかつ)  尾張藩主  隠居 
頼三樹三郎(らいみきさぶろう) 学者  死罪 
吉田松陰(よしだ しょういん)  松下村塾塾長 死罪 
 

井伊直弼は次期将軍として徳川慶福(後の家茂)を推していましたので、攘夷派の徳川斉昭や15代将軍となる慶喜も処分しました。また朝廷・公家も含め全部で100人以上が処罰されました。松下村塾塾頭の吉田松陰死罪にしました。松下村塾からは「高杉晋作」「木戸孝允」「伊藤博文」などが世にでています。

さて強引すぎる政治のせいで評判が悪い井伊直弼ですが、禅・国学・和歌など諸学芸に通じ、茶人としても知られています。また「この出会いは一生に一度の出会いだと思って、人との出会いを大切にする」という意味の「一期一会」という言葉を残しました。意外な面がありますね。

桜田門外の変

安政の大獄以後、井伊のやり方に不満を持った人が多くいました。

そしてついに井伊は江戸城桜田門の近くで元水戸藩士らに暗殺されてしまいました。

 直弼憎し、人は群れ(1860年)なす桜田門

井伊直弼の暗殺により、幕府の権威は地に落ち、崩壊を早めました。

井伊大老亡き後幕府の中心となったのは、安藤信正です。

公武合体

安政の大獄の真っただ中、14代将軍徳川家茂が13歳で就任します。

家茂は評価が高い将軍ですね。英明な風格を備えており、勝海舟をはじめ幕臣からの信望厚く、忠誠を集めたと言われています。勝は、「若さゆえに時代に翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれない。武勇にも優れていた人物であった」と評価し、その死に関しては「家茂さまの御薨去をもって徳川幕府は滅んだ」と嘆息したと伝えられています。

幕府では公武合体論」が唱えられました。天皇・公家勢力と武家である幕府とが一致協力して難局に当たろうとするものです。孝明天皇は攘夷派ではありますが、「佐幕派(幕府を補佐する)」でもあります。公武合体として、孝明天皇の妹「和宮」が家茂の妻として降嫁しました。かわりに家茂は天皇に「攘夷」を約束させられました。

皇女和宮は中山道を通って江戸に入られました。途中地元桶川で一泊したということで、今でも桶川市では和宮の行列を再現した市民祭りが毎年11月に行なわれています。泣く泣く将軍に降嫁した和宮でしたが、家茂とは仲睦まじかったといいます。

徳川家茂の肖像画を初めて見た高校生のとき、まるで漫画みたいな将軍がいるな、と思ったほどでした。ハンサムでかっこいいと思いませんか。大河ドラマ「篤姫」では「松田翔太」が演じました。妻の和宮は堀北真希でしたね。

各藩の攘夷

風雲急を告げる幕末。様々な事件が起こりますが、時系列で整理しました。

1862年1月 坂下門外の変・・老中安藤信正が水戸浪士に襲われ負傷

     4月  寺田屋事件・・薩摩藩島津久光が京都の薩摩藩尊王攘夷派を一掃した

         (同じ寺田屋では後に坂本龍馬も襲撃される)

     8月 生麦事件・・江戸から京都へ向かう島津久光一行の通行を妨害したイギリス人4人殺傷。

    12月 長州藩士による英国公使館焼き討ち

1863年 3月 徳川家茂229年ぶりに上洛

     5月 下関事件・・長州藩下関で外国船を砲撃。英米下関に報復攻撃。砲台を破壊

     7月 薩英戦争・・事件後薩摩藩と英国は接近

     8月 8月18日の政変・・京都から攘夷派が一掃される

1864年 7月 池田屋事件・・池田屋に潜伏していた長州藩土佐藩などの尊王攘夷志士を、

                                   幕府京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。

     7月 禁門の変(蛤御門の変)・・長州藩が御所襲撃。薩摩藩・会津藩が長州藩を京都から駆逐

     8月 馬関戦争・・英米仏蘭連合軍、下関砲撃。長州敗北。

    11月 第一次長州征伐・・朝敵となった長州へ幕府・薩摩が出兵。長州は恭順。

    12月 高杉晋作、下関で挙兵(長州は討幕へ)

薩長同盟

佐幕派の薩摩と討幕派の長州は犬猿の仲でしたが、次の時代を切り開くには、薩摩と長州が組む必要があると考えた人物がいました。高知藩を脱藩した「坂本龍馬」です。

坂本龍馬の仲介で、1866年薩摩藩の「西郷隆盛」「大久保利通」「小松帯刀」、長州藩の「桂小五郎(木戸孝允)」らが薩長同盟を結びました。薩長とも列強に対抗できる統一国家を作るため幕府を倒す必要があると考えたのです。

 いや無理無理(1866年)薩長同盟

同年の「第二次長州征伐」では、薩摩は幕府の出兵要請を断ったため、長州の勝利に終わりました。

この戦いの最中に大阪城で徳川家茂が病死しました。

大政奉還

家茂の後第15代最後の将軍についたのは徳川慶喜でした。

尊王攘夷派の中心水戸藩出身の慶喜が将軍につくことにより、幕府の滅亡は決まったようなものではないでしょうか。事実、後の「鳥羽伏見の戦い」では、朝敵になることを避けて官軍の前から江戸に逃げ帰っています。

しかし、この慶喜将軍就任時点では、慶喜は尊王派、孝明天皇は佐幕派でしたので、公武合体の効果もあり、幕府改革が進み幕府存続の可能性もありました。

しかし、まもなく孝明天皇が急死します。討幕派の公家や薩長によって殺害されたとの説がありますが、ありえる話ですね。孝明天皇の急死により、公武合体は意味を失います。

事ここに至って、1867年慶喜は政権返上を明治天皇に上奏しました。(大政奉還)

大政奉還は、坂本龍馬が「船中八策」を後藤象二郎に提示し、土佐藩主の「山内容堂」が建白書を慶喜に提出して実現しました。

当時幕府はフランスの、薩長はイギリスの協力を得ていましたので、この2国の介入を防ぎ日本の植民地化を防ごうとして、薩長との全面戦争を避けるため政権を返上したといわれています。

大政奉還後も朝廷には国政運営能力がないので、引き続き徳川が政権運営できるとの読みも慶喜にはあったようです。大政奉還後は、天皇のもとで諸大名が集まる議会を作り、その中で最大の大名である徳川家が実質的な支配を続けられると考えたのです。

 いやむなし(1867年)大政奉還

大政奉還の1か月後、坂本龍馬が暗殺される「近江屋事件」が起こります。

教科書では無視される龍馬暗殺ですが、犯人は誰か? 歴史好きは本能寺の変と同じように犯人探しの推理を楽しんでいます。京都見回り組新撰組・薩摩藩陰謀説・果ては外国人陰謀説もあって面白いですね。

武力討幕を目指す薩長にとって、龍馬が邪魔になったという説も納得できます。というのも坂本龍馬は「徳川慶喜」を中心とした諸大名の合議制での新しい日本を考えていたようです。穏やかな改革ですね。薩長犯人説は一般には認められた説ではありませんが・・・・・

王政復古の大号令

大政奉還の直前、薩長は幕府を倒せとの「討幕の密勅」を明治天皇より得ようとしていました。ところが大政奉還により倒すべき幕府がなくなってしまいました。

これに対して、薩摩の西郷隆盛や大久保利通は長州の木戸孝允や公家の岩倉具視らと結んで朝廷を動かし「王政復古の大号令」を発し、天皇中心の政治に戻すことを宣言し、同時に慶喜追放と領地没収(辞官納地)を命じました。

王政復古の大号令は徳川家の力を剥ぎ取る強硬策であるため、クーデターだといわれます。

戊辰戦争①鳥羽伏見の戦い

大政奉還したとはいえ、徳川家は所領400万石の日本最大の大名です。辞官納地に不満を持つ旧幕府軍は新政府軍と戦いを始めます。旧幕府軍と新政府軍との戦いを「戊辰戦争」といいます。

幕府軍のリーダーは「徳川慶喜」そして新政府軍は「西郷隆盛」が参謀となって、先ず京都の「鳥羽・伏見」で激突します。ところが薩長軍には切り札がありました。「錦の御旗」です。錦の御旗を掲げるものは天皇の軍であるという意味ですので、天皇の軍と戦う幕府軍は朝敵ということになります。

水戸藩は以前より「もし徳川家と天皇家が戦うことがあれば、天皇の味方をする」ことになっていました。その水戸藩出身の慶喜が最後の将軍になったのは皮肉なものです。その慶喜が錦の御旗に逆らえるはずがありません。慶喜は大阪城を脱出、海路江戸に戻り、謹慎することになりました。錦の御旗を見た幕府の武士たちは戦う意欲をなくし、敗走します。

戊辰戦争②江戸城無血開城

官軍(天皇の軍隊)となった薩長土肥の軍隊は、江戸にせまりました。このままでは江戸が焼け野が原になってしまいます。ところが江戸城攻めの直前、二人の英雄がこれを救います。

徳川の陸軍総裁「勝海舟」と大総督府下参謀「西郷隆盛」の歴史的会談により、江戸総攻撃中止が決まりました。西郷隆盛が勝海舟の説得に応じ、これにより旧幕府軍は江戸城を無抵抗で明け渡し、新政府軍は江戸攻めを中止するという「江戸城無血開城」が実現しました

戊辰戦争③五稜郭の戦い

薩長土肥軍は江戸城に入城しましたが、旧幕府軍の一部は東北へそして北海道へ向かい抵抗を続けました。このあたり瀬戸内海における平氏の敗走を思い浮かべてしまいますね。

東北全部と越後北部の31の藩は「奥羽越列藩同盟」を結成し、新政府軍に対抗します。

この「奥羽越列藩同盟」は薩長による新政府に対抗する「北日本政府」を目指したようで、明治天皇の伯父にあたる「輪王寺の宮」が「東武天皇」、仙台藩主「伊達慶邦」が「征夷大将軍」といった名簿まで作られていたようです。

上野戦争・長岡での上越戦争・会津での戦いを経て、最後は北海道函館での「五稜郭の戦い」です。

北海道でも旧幕府軍は榎本武揚を中心に独立国をもくろんでいました。しかし敗戦。

五稜郭の戦いでは、新撰組副長の 「土方歳三」が戦死し、徳川海軍副総裁「榎本武揚」が降伏し、戊辰戦争は幕を閉じます

ちなみに榎本武揚は東京農業大学の創始者です。埼玉では「農大三高」が人気ある私立高校ですので親しみがあります。

さてこの後明治維新を迎えるのですが、明治以降は「戦争の歴史」といってもいいくらい戦争が多く、教える方も暗くなります。江戸時代は何だかんだ言っても平和な時代だったと思うのです。

おまけ

幕末では、教科書には載っていない色々な組織があります。

テストにはでませんが、ここでまとめてリンクをつけておきましょう。歴史の知識とはそういうものです。

奇兵隊・・・1863年長州藩高杉晋作が結成した庶民中心の部隊。攘夷から倒幕へと活躍した。

天誅組・・・1863年土佐脱藩の吉村虎太郎が結成。尊王攘夷派。

新撰組・・・1863年結成。京都において反幕府を取り締まる。京都守護職傘下。近藤勇局長他土方歳三・沖田総士が有名。

       制服は「忠臣蔵」を参考にしたダンダラ羽織。

京都見廻り組・・・1864年京都守護職・会津藩主松平容保のもとに結成。新撰組と違い武士で組織される。

海援隊・・・1865年坂本龍馬が結成した亀山社中が前身。商社活動や政治活動を行なう。日本最初の会社ともいわれる。

彰義隊・・・1868年幕府により江戸市中見回りを目的として結成される。上野戦争で新政府軍に敗れる。

白虎隊・・・1868年会津藩にて結成。16歳・17歳の武士の子からなり、会津戦争で1名を除き全員が自刃。

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