塾で教える日本の歴史 22  大日本帝国憲法 (明治時代 2)

自由民権運動

征韓論をめぐる明治6年の政変で政府を去った板垣退助は、藩閥政治を非難し、政府の中心となった大久保利通を専制政治であると批判しました。

板垣らは国民が政治に参加する道を開くべきだと、1874年「民選議員設立の建白書」を政府に提出しました。これは国民から選挙で選ばれた代表者による国会開設を要求するもので、ここから自由民権運動が高まりました。板垣は土佐で「立志社」を、大阪で全国的な組織「愛国社」を作りました。1880年には「国会期成同盟」を結成して国会開設や憲法の制定を求めました。

こうした中「北海道開拓使官有物払下げ事件」が発覚しました。これは黒田清隆が国の財産である開拓使の施設を一部の官僚や商人にただ同然で払い下げようとしていたもので、民権派は政府を激しく攻撃しました。

政府が倒れることを心配した伊藤博文は払下げを中止し、事件を表面化させた大隈重信を政府から追い出しました。(明治十四年の政変

明治十四年の政変に関しては、早稲田大学の学報に次のようにあります。

「大隈重信は、国会の早期開設と政党内閣制導入を主張、また新聞等によって厳しく批判されていた北海道官有物払い下げにも強く反対した。国会開設尚早論をとっていた伊藤博文らは結束し大隈派を罷免。大隈、大隈派官吏は一斉に下野した。いわゆる明治14年の政変である。」

またウイキペディアには次のようにあって、慶應の学生が大隈重信に同調していたようです。

「1881年(明治14年)に自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文井上毅が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放した政治事件である。1881年政変ともいう。近代日本の国家構想を決定付けたこの事件により、後の1890年(明治23年)に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったといえる。」

そして同じ1881年、10年後に国会を開くことを約束しました。(国会開設の勅諭

政府を追われた大隈重信は「立憲改進党」を結成し、また早稲田大学(筆者の母校です)の前身である東京専門学校を創設しました。立憲改進党は、イギリス風の立憲君主制を目指していました。

一方、板垣退助は王や皇帝がいない共和制であるフランス流の「自由党」を結成し国会開設に備えました。

また、1880年代に主に東日本で、民権派が関係し農民たちが蜂起した「福島事件」や「秩父事件」などの激化事件が起こっています。「加波山(かばさん)事件」という面白い名前の事件もありました。別にカバさんが起こしたわけではないですよ。

自由民権運動に対し、政府は「新聞紙条例」や「集会条例」を出して、集会や言論を弾圧しました。

大日本帝国憲法

政府は国会を開く前に憲法を制定しようと伊藤博文をヨーロッパに派遣しました。伊藤博文は君主権の強いドイツ(プロイセン)の憲法を参考に、憲法の草案を作成しました。

1885年に「内閣制度」を作り、初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任しました。

そして1889年、天皇が国民に与えるという形で「大日本帝国憲法」が発布されました。

 「いちはやく(1889年)帝国憲法発布される」

帝国憲法は立憲君主制で、天皇が国の元首として統治し、帝国議会の招集、解散、軍隊の指揮、条約の締結や戦争について天皇の権限として明記されました。

国民(臣民)の自由や権利は法律の範囲内とはいえ、ある程度認められました。

第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ

第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

第二十条 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従イ兵役ノ義務ヲ有ス

公民で習う現在の「日本国憲法」との違いを覚えておきましょう。


大日本帝国憲法 日本国憲法
成立 1889年2月11日発布 1946年11月3日公布1947年5月3日施行
制定者 天皇 国民
主権 天皇 国民主権
国会(議会) 衆議院(制限選挙)貴族院(皇族・華族) 衆議院(直接選挙)参議院(直接選挙)
人権 法律によって制限される 基本的人権の尊重
軍備 天皇に統帥権 戦争の放棄(平和主義)

憲法発布の翌年には「教育勅語」が出されて教育の柱とされました。

帝国議会の開設

憲法に基づいて、1890年第一回衆議院議員総選挙が実施されました。

選挙権を持つのは直接国税を15円以上納める男子だけであったため、総人口の1.1%(約45万人)しかいませんでしたが、投票率は94%でした。

同年第一回帝国議会が開かれ、日本はアジアで最初の近代的な立憲制国家になりました。

不平等条約改正(領事裁判権の撤廃)

1886年イギリス船ノルマントン号が沈没し、船長はイギリス人乗客船員を全員救助したのに、日本人乗客は全員見殺しにしました。にもかかわらず「領事裁判権」によって船長を日本で裁くことができず、船長は軽い罰を負うだけにとどまりました。

このノルマントン号事件を契機に不平等条約改正を求める世論が高まり、1894年日清戦争直前、陸奥宗光外相は領事裁判権を撤廃した「日英通商航海条約」を結ぶことに成功しました。

日清戦争

1894年朝鮮では、東学という宗教を信仰する団体に率いられた農民の蜂起「甲午農民戦争」が勃発しました。これは腐敗した役人の追放と日本や欧米の排除をめざしたものです。

これに対し朝鮮政府は清に出兵を求めたため、日本も朝鮮に出兵し、日清戦争が始まりました。

日本はこの戦争に勝利し、1985年講和条約である「下関条約」が結ばれました。

 「飛躍し(1894年)よう 日清戦争!」

                           下関条約の内容
1:朝鮮の独立を認める。
(この直後、朝鮮は大韓帝国と国名を変え、独立を宣言します)
2:遼東半島(りょうとうはんとう)を日本に譲り渡す。
(中国と朝鮮の間にある半島で日本の戦略的に重要な土地です)
3:台湾を日本に譲り渡す。 
(日本は初の海外植民地として台湾を獲得しました。)
4:澎湖諸島(ほうこしょとう)を日本に譲り渡す。
(これは台湾と中国本土の間の島々。)  
5:賠償金2億両を日本に支払う。
(約3億1000万円。当時の日本の国家予算のなんと2倍以上)
6:日清通商航海条約を結ぶ
(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせた)

賠償金は殆どが軍備拡張費に使われました。

三国干渉

満州(中国東北部)を狙うロシアは、下関条約直後「ドイツ・フランス」とともに遼東半島を清に変換するよう求めてきました。対抗できる力のなかった日本はこれを受け入れました。

 「三国干渉 三人で フロ入るのは ドイツだ?」

義和団事件

日清戦争敗北後、清は欧米列強に分割租借されていました。(中国分割

これに対して1899年「扶清滅洋(清をたすけて西洋を撃滅する)を唱えて、義和団が蜂起しました。

「扶清滅洋」は幕末の「尊王攘夷」みたいなものですね。日本と違うのは、清は日本を主力とする連合国に鎮圧され、衰退していきました。

この後ロシアは満州を占領し、日本はロシアに対抗してイギリスと1902年「日英同盟」を結びました。

日露戦争

日清戦争の10年後「日露戦争」が始まります。イギリス・アメリカが戦費調達に協力したこともあり、日本は戦争を有利に進めていきます。

 「行くは死(1904年)か 日露戦争」

「旅順203高地での戦い」「奉天会戦」「日本海海戦」などの後、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介で「ポーツマス条約」が結ばれました。

            ポーツマス条約の内容
1 韓国における日本の優越権を認める
2 旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道利権を日本に譲る
3 北緯50度以南の樺太(サハリン)の割譲
4 沿海州・カムチャッカ半島の日本の漁業権を認める

日露戦争の講和条約「ポーツマス条約」が日清戦争の講和条約「下関条約」と違って、賠償金がなかったので日本国民が激しく政府を攻撃し、東京では日比谷焼打ち事件が起こりました。戦前戦後、軍費調達のため増税や新税の導入が行われ国民の負担は大きくなりました。

また歌人の与謝野晶子は、日露戦争に出兵した弟のことを思って「君死にたまうことなかれ」という詩を発表しました。他にキリスト教の立場からの「内村鑑三」や、社会主義からの「幸徳秋水」らが反戦を唱えました。

韓国併合

日露戦争後日本は韓国を保護国とし、首都漢城(ソウル)に韓国統監府を置き、初代統監に「伊藤博文」が就きました。1907年には日本は韓国皇帝を退位させ軍隊も解散させましたが、日本に対する抵抗はその後も続き、1909年伊藤博文が満州ハルビンで「安重根」に暗殺される事件が起こりました。

1910年には日韓併合条約が締結され(韓国併合)、朝鮮総督府を設置し、韓国を植民地化しました。学校では日本史や日本語を教える「同化政策」をとりました。

辛亥革命

中国では列強に対し、清を倒して近代国家を自立しようという動きがでてきました。

その中心となったのが「三民主義」を唱えた「孫文」です。1911年辛亥革命が勃発、アジアで最初の共和国である「中華民国」臨時政府が成立し、孫文が臨時大総統となりました。

清の軍人「袁世凱」が清を裏切り、自らが大総統になる条件で孫文と手を組み、1912年清を滅ぼしました。清の最後の皇帝「宣統帝(愛新覚羅溥儀)」は「ラスト・エンペラー」として映画にもなりました。

袁世凱は孫文から大総統の地位を譲り受けた後独裁的な政治を行ないましたが、死後中国は軍閥間の争いが起こることになりました。

不平等条約改正(関税自主権の回復)

1911年(明治44年)列強の仲間入りをした日本は、小村寿太郎が関税自主権の回復をアメリカに認めさせました。

1912年が大正元年なので、幕末の不平等条約の完全改正には明治いっぱいかかったということです。

年代 時期 内容 人物
1958年 江戸末期 日米修好通商条約 井伊直弼・ハリス
1904年 ノルマントン号事件後日清戦争直前 領事裁判権撤廃 陸奥宗光
1911年 日露戦争後 関税自主権回復 小村寿太郎

日本の産業革命

2015年世界遺産への登録で話題になった日本の産業革命ですが、本国イギリスの産業革命が18世紀後半からなのに対し、日本では製紙・紡績など軽工業の発達が日清戦争前後、鉄鋼・機械・造船など重工業は日露戦争前後に発達しました。1世紀以上の差があるわけですね。

世界遺産には全23施設が登録されました。軍艦島八幡製鉄所グラバー亭などが興味をひきます。

財閥・労働問題

産業の発展とともに、労働者が増加し労働問題が起こります。長時間労働と低賃金に苦しむ労働者は労働争議を起こします。労働組合の結成などに伴い、日本でも社会主義が成長しました。1910年の「大逆事件」では幸徳秋水はじめ、多くの社会主義者が逮捕され、12人が処刑されました。

一方、三井・三菱・住友・安田などの大資本家は、金融・貿易・鉱業など様々な分野に進出し、日本経済を支配する「財閥」に成長していきました。

足尾銅山鉱毒事件

産業の発展は公害問題を生みだしました。

当時銅は日本の重要な輸出品でした。1890年頃、国内最大の産出量があった「足尾銅山」から渡良瀬川流域に鉱毒が流出し、大きな社会問題になりました。

衆議院議員の「田中正造」は議員を辞職して明治天皇に訴えたりして、生涯この問題に取り組みました。水質汚染は次第に解決しましたが、煙害問題が解決するのは1956年を待たなければいけませんでした。

足尾銅山鉱毒事件は日本の公害問題の原点とされています。

明治の文化

明治時代の文化・芸術・科学は表にまとめました。

文学 坪内逍遥
二葉亭四迷
森鴎外
夏目漱石
島崎藤村
樋口一葉
石川啄木
小説神髄
浮雲
舞姫
吾輩は猫である
若菜集
たけくらべ
一握の砂
美術 フェノロサ・岡倉天心
横山大観
黒田清輝
高村光雲
日本画の復興
日本画
印象派の洋画
彫刻
医学 北里柴三郎
志賀潔
野口英世
破傷風
赤痢菌
黄熱病

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