塾で教える日本の歴史 ⑱ 江戸幕府の政治と社会(江戸時代 2)
江戸時代の身分制度
江戸時代は幕府徳川将軍を頂点として、藩を支配する大名とその家来である武士が支配階級でした。
全人口の約7%を占める武士は名字・帯刀などの特権がありましたが、忠誠・勇敢・信義・礼節・名誉・質素などを求める「武士道」を守らねばなりませんでした。「武士は食わねど高楊枝」という言葉はご存知ですか。特権には犠牲がつきものです。
人口の約85%を占めるのが「百姓」で、農業・林業・漁業で生活し、重い「年貢」を納めなければなりませんでした。
百姓には土地を持つ「本百姓」と土地を持たない「水のみ百姓」の区別があり、「庄屋・組頭・百姓代」などの村役人が村の自治を担い、年貢などを徴収して領主におさめました。また「五人組」の制度を作り、犯罪の防止や年貢の納入に連帯責任を負わせました。
江戸時代は農業が中心の社会でしたので、職人や商人などの町人は人口の約5%しかいませんでした。
また別に「えた・非人」とよばれる被差別民もいました。
現在では「士農工商」という言葉は「身分の上下」ではなく「職分を表したもの」とされており、教科書からは姿を消しています。
(勝海舟は「士農工商という差別」という言葉を使っていますので、幕末には身分の上下の意味で使われていたようです)
さらに「慶安の御触書」も存在が疑問視されており、教科書には載っていません。
また江戸時代の職業は世襲が原則とはいえ、百姓・町人の間では職業の移動は比較的容易であり、武士の下層(徒士)や足軽との身分移動もあったようです。
歴史も時代や研究によって姿を変えていくものです。今の教科書は私の習った頃とは違ってきています。教える方も最新の研究を取り入れないといけませんね。
もしこのブログでも間違いがあれば、教えて下さい。宜しくお願い致します。
江戸時代の農業と諸産業の発達
幕府や藩は「新田開発」に力を注ぎ、「千歯こき・備中ぐわ・とうみ・からさお」などの新しい農具が普及し生産性が向上しました。
また都市部で手工業の発展に伴い、農村でも「麻・わた・あぶらな・あい・べにばな」など商品作物の栽培が広まりました。
・鉱山・・・佐渡金山・生野銀山・石見銀山(世界遺産)・足尾銅山
・水産業・・・九十九里浜のイワシ漁(肥料のほしか)・蝦夷のニシン漁・コンブ漁など
・野田や銚子の醤油・灘の酒・瀬戸内海の塩・金沢や有田の磁器・輪島や会津の漆器・南部鉄器など
交通路の発達
参勤交代や諸産業の発達により、陸上や海上の交通が整備されました。
陸上では五街道(東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中)で街道には宿場町ができ、箱根などの要地には関所を置きました。
また手荷物や手紙を運ぶ「飛脚」も盛んになりました。
海上では、大阪と江戸を結ぶ「菱垣廻船(木綿・油・醤油)」と「樽廻船(酒)」のほか、
江戸から東北の太平洋沿岸を廻る「東廻り航路」や瀬戸内海から日本海を廻る「西廻り航路」がありました。
三都の繁栄
17世紀末の元禄時代頃より、都市が大きく発展しました。
江戸は「将軍のおひざもと」とよばれ人口約100万の政治の中心でありました。
大阪は「天下の台所」といわれ、商業や金融の中心となり、諸藩の年貢米や特産物が「蔵屋敷」に集まりました。
京都は文化・宗教の中心地でありました。また「西陣織・清水焼」など優れた工芸品を生産しました。
「下らない」という言葉の語源には諸説ありますが、上方(京都・大阪)の物が優れていたので、「下ってくるものではない。関東のものである」ということから「下らない」という言葉が生まれたという説も納得できます。
商人の台頭
都市では商人が同業者組織である「株仲間」を結成し、営業を独占しました。
また金銀の貨幣を交換し、金を貸しつける両替商が力をもち、大名にも貸付を行なったりしました。
ここで間違いやすい語句と時代をまとめておきましょう。
これで間違えませんね。
室町時代 | 江戸時代 | |
都市(町人) | 座 | 株仲間 |
村(農民) | 惣 | 五人組 |
徳川将軍
家康から第4代将軍の家綱までの4人の将軍の業績をまとめておきます。
理科とか社会はこのように自分なりに簡単にまとめることが大切ですよ。
初代 徳川家康・・・
子どもの頃、織田家や今川家の人質として苦労しました。織田信長・豊臣秀吉と並ぶ3人の英傑の1人です。徳川幕府260年の基礎を築きました。
2代 徳川秀忠・・・
秀忠の名は秀吉から譲られたものです。正室は浅井3姉妹のひとり「お江」 お江と春日局といえば、大奥創設の逸話があるのですが、中学生には相応しくないのでしょうね。
3代 徳川家光・・・
生まれながらの将軍であるという自負を持ち、参勤交代・鎖国を実施しました。祖父である家康と伊達正宗を尊敬していたとのことです。
4代 徳川家綱・・・
わずか11歳で将軍を継承しましたが、「由井正雪の乱(慶安の変)」を側近の支えで乗り越え、幕府政治は安定していきました。末期養子禁止の緩和・殉死の禁止など、武断政治から文治政治へ政策を切り替えていきました。
徳川綱吉と生類憐みの令
第5代将軍徳川綱吉は評価が分かれる将軍です。
「生類憐みの令」によって、人間より犬を大切にした犬公方=バカ殿という評価がある一方、戦国時代以来の武力による殺伐とした風潮を変えた功績もあります。
生類憐みの令は極端な動物愛護令で、犬にとどまらず猫・鳥などの殺生も禁じました。これにより関東の農民や江戸の町民はかなりの迷惑を被りました。しかし仏教の殺生を禁じた思想にもとづく綱吉の慈愛の政治という一面もあったようです。
捨て犬を 拾わな(1687年)ければ打ち首だ
また綱吉は儒学、中でも身分秩序を重視する朱子学を奨励しました。
武家諸法度を改正し、弓馬の道から「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべきこと」と主君に対する忠・父祖に対する孝・礼儀による秩序を武士に要求しました。
綱吉の時代を元禄時代といいます。元禄時代は華やかな時代ですが、幕府財政も転換期を迎えました。綱吉は側用人・柳沢吉保や荻原重秀を重用しましたが、金銀の産出が減少し幕府財政がひっ迫すると、金の含有量を減らした質の劣る貨幣を発行しました。これにより貨幣価値が下落し物価が上昇し、人々の生活を圧迫しました。
綱吉の死後、後を継いだ第6代徳川家宣は生類憐みの令を廃止し、朱子学者の新井白石と側用人・間部詮房を信託して、貨幣の質を戻し、長崎貿易を制限しました。これは金銀の流出を防ぐねらいがありました。
6代家宣と7代家継、そして新井白石と間鍋詮房らが行なった政治を「正徳の治」といいます。
元禄赤穂事件(忠臣蔵)
日本史の中で、「忠臣蔵」は驚くほど扱いが小さいです。中学の教科書は「赤穂事件」とか「忠臣蔵」の記載がなく、高校の教科書では「浅野長矩」と「吉良義央」の名前が欄外にかろうじて見えます。大石内蔵助の名前は見当たりません。ちょっとさびしいですね。
さて「赤穂事件」は1701年から1702年にかけて起こった実際の事件のことを指します。つまり「江戸城中で赤穂藩主浅野内匠頭長矩が高家吉良上野介義央を傷つけ浅野は切腹、翌年浅野家の遺臣たちが吉良を討った」ということです。
「忠臣蔵」とは、赤穂事件を題材にした人形浄瑠璃や歌舞伎で「仮名手本忠臣蔵」として人気を博した物語をいいます。大石内蔵助の「蔵」に忠臣がいっぱい詰まっているという感じですね。
これは「三国志」と「三国志演義」の関係と同じです。
歴史的事実=赤穂事件・三国志
物語的虚構=忠臣蔵・三国志演義
大石内蔵助を中心とした赤穂四十七士の「松の廊下での刃傷から討ち入り・切腹まで」の物語は繰り返し小説や映画で取り上げられています。それだけ日本人の琴線に触れた物語だということでしょう。
何故浅野内匠頭は吉良に切りつけたのか。「浅野内匠頭がわいろを断ったため、彼を苛めた吉良」に対して勘忍袋の緒が切れたのでしょうか。今となっては定かではありませんが、それだけ作家の想像力を駆り立てるところがあるのでしょうね。
忠臣蔵の物語は、「忠義」だけではなく、「幕府及び幕府高官への抵抗」の側面があることも人気の理由ではないでしょうか。将軍徳川綱吉は「生類憐みの令」で人間より動物を大切にしました。犬を大切にするのは悪いことではありませんが、「人間より」というところが問題です。幕府への不満が溜まっているところへ、この大事件が起こり、赤穂浪士の幕府への抵抗の姿勢が人々の気持ちをとらえたのでしょう。
浅野が吉良を切りつけた原因が何であれ、喧嘩両成敗という幕府の法がありながら、吉良にはおとがめなし、浅野だけ即日切腹という片落ちの裁定が赤穂浪士の討ち入りの原因だと思います。幕府が誤った判断をしたことに対しての異議申し立てが討ち入りなのです。赤穂浪士にとっては、吉良が悪人であろうと善人であろうとあまり関係がなかったのだと思います。結局吉良家お取り潰しという「喧嘩両成敗」になったので、赤穂浪士の討ち入りは大成功に終わったと思います。
近頃吉良へ同情する意見もありますが、私の祖父母が赤穂出身なので、私は赤穂浪士の味方です。
「忠臣蔵」に関しての以前の記事も読んで下さい。
元禄文化
江戸時代では2つの文化を覚えましょう。
元禄文化・・・上方(京都・大阪)中心の町人文化
化政文化・・・江戸中心の町人文化
ここでは元禄文化です。
・文芸・・井原西鶴(浮世草紙)・・松尾芭蕉(俳諧・紀行文奥の細道)・・月日は百代の過客にして・・・
・芸能・・近松門左衛門(人形浄瑠璃)・・市川団十郎・坂田藤十郎(歌舞伎)
・絵画・・菱川師宣(浮世絵・見返り美人図)
・その他・・年中行事が広まる(正月の雑煮・節分の豆まき・ひな祭り・こいのぼり・盆踊りなど)