塾で教える日本の歴史 22  大日本帝国憲法 (明治時代 2)

自由民権運動

征韓論をめぐる明治6年の政変で政府を去った板垣退助は、藩閥政治を非難し、政府の中心となった大久保利通を専制政治であると批判しました。

板垣らは国民が政治に参加する道を開くべきだと、1874年「民選議員設立の建白書」を政府に提出しました。これは国民から選挙で選ばれた代表者による国会開設を要求するもので、ここから自由民権運動が高まりました。板垣は土佐で「立志社」を、大阪で全国的な組織「愛国社」を作りました。1880年には「国会期成同盟」を結成して国会開設や憲法の制定を求めました。

こうした中「北海道開拓使官有物払下げ事件」が発覚しました。これは黒田清隆が国の財産である開拓使の施設を一部の官僚や商人にただ同然で払い下げようとしていたもので、民権派は政府を激しく攻撃しました。

政府が倒れることを心配した伊藤博文は払下げを中止し、事件を表面化させた大隈重信を政府から追い出しました。(明治十四年の政変

明治十四年の政変に関しては、早稲田大学の学報に次のようにあります。

「大隈重信は、国会の早期開設と政党内閣制導入を主張、また新聞等によって厳しく批判されていた北海道官有物払い下げにも強く反対した。国会開設尚早論をとっていた伊藤博文らは結束し大隈派を罷免。大隈、大隈派官吏は一斉に下野した。いわゆる明治14年の政変である。」

またウイキペディアには次のようにあって、慶應の学生が大隈重信に同調していたようです。

「1881年(明治14年)に自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文井上毅が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放した政治事件である。1881年政変ともいう。近代日本の国家構想を決定付けたこの事件により、後の1890年(明治23年)に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったといえる。」

そして同じ1881年、10年後に国会を開くことを約束しました。(国会開設の勅諭

政府を追われた大隈重信は「立憲改進党」を結成し、また早稲田大学(筆者の母校です)の前身である東京専門学校を創設しました。立憲改進党は、イギリス風の立憲君主制を目指していました。

一方、板垣退助は王や皇帝がいない共和制であるフランス流の「自由党」を結成し国会開設に備えました。

また、1880年代に主に東日本で、民権派が関係し農民たちが蜂起した「福島事件」や「秩父事件」などの激化事件が起こっています。「加波山(かばさん)事件」という面白い名前の事件もありました。別にカバさんが起こしたわけではないですよ。

自由民権運動に対し、政府は「新聞紙条例」や「集会条例」を出して、集会や言論を弾圧しました。

大日本帝国憲法

政府は国会を開く前に憲法を制定しようと伊藤博文をヨーロッパに派遣しました。伊藤博文は君主権の強いドイツ(プロイセン)の憲法を参考に、憲法の草案を作成しました。

1885年に「内閣制度」を作り、初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任しました。

そして1889年、天皇が国民に与えるという形で「大日本帝国憲法」が発布されました。

 「いちはやく(1889年)帝国憲法発布される」

帝国憲法は立憲君主制で、天皇が国の元首として統治し、帝国議会の招集、解散、軍隊の指揮、条約の締結や戦争について天皇の権限として明記されました。

国民(臣民)の自由や権利は法律の範囲内とはいえ、ある程度認められました。

第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ

第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

第二十条 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従イ兵役ノ義務ヲ有ス

公民で習う現在の「日本国憲法」との違いを覚えておきましょう。


大日本帝国憲法 日本国憲法
成立 1889年2月11日発布 1946年11月3日公布1947年5月3日施行
制定者 天皇 国民
主権 天皇 国民主権
国会(議会) 衆議院(制限選挙)貴族院(皇族・華族) 衆議院(直接選挙)参議院(直接選挙)
人権 法律によって制限される 基本的人権の尊重
軍備 天皇に統帥権 戦争の放棄(平和主義)

憲法発布の翌年には「教育勅語」が出されて教育の柱とされました。

帝国議会の開設

憲法に基づいて、1890年第一回衆議院議員総選挙が実施されました。

選挙権を持つのは直接国税を15円以上納める男子だけであったため、総人口の1.1%(約45万人)しかいませんでしたが、投票率は94%でした。

同年第一回帝国議会が開かれ、日本はアジアで最初の近代的な立憲制国家になりました。

不平等条約改正(領事裁判権の撤廃)

1886年イギリス船ノルマントン号が沈没し、船長はイギリス人乗客船員を全員救助したのに、日本人乗客は全員見殺しにしました。にもかかわらず「領事裁判権」によって船長を日本で裁くことができず、船長は軽い罰を負うだけにとどまりました。

このノルマントン号事件を契機に不平等条約改正を求める世論が高まり、1894年日清戦争直前、陸奥宗光外相は領事裁判権を撤廃した「日英通商航海条約」を結ぶことに成功しました。

日清戦争

1894年朝鮮では、東学という宗教を信仰する団体に率いられた農民の蜂起「甲午農民戦争」が勃発しました。これは腐敗した役人の追放と日本や欧米の排除をめざしたものです。

これに対し朝鮮政府は清に出兵を求めたため、日本も朝鮮に出兵し、日清戦争が始まりました。

日本はこの戦争に勝利し、1985年講和条約である「下関条約」が結ばれました。

 「飛躍し(1894年)よう 日清戦争!」

                           下関条約の内容
1:朝鮮の独立を認める。
(この直後、朝鮮は大韓帝国と国名を変え、独立を宣言します)
2:遼東半島(りょうとうはんとう)を日本に譲り渡す。
(中国と朝鮮の間にある半島で日本の戦略的に重要な土地です)
3:台湾を日本に譲り渡す。 
(日本は初の海外植民地として台湾を獲得しました。)
4:澎湖諸島(ほうこしょとう)を日本に譲り渡す。
(これは台湾と中国本土の間の島々。)  
5:賠償金2億両を日本に支払う。
(約3億1000万円。当時の日本の国家予算のなんと2倍以上)
6:日清通商航海条約を結ぶ
(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせた)

賠償金は殆どが軍備拡張費に使われました。

三国干渉

満州(中国東北部)を狙うロシアは、下関条約直後「ドイツ・フランス」とともに遼東半島を清に変換するよう求めてきました。対抗できる力のなかった日本はこれを受け入れました。

 「三国干渉 三人で フロ入るのは ドイツだ?」

義和団事件

日清戦争敗北後、清は欧米列強に分割租借されていました。(中国分割

これに対して1899年「扶清滅洋(清をたすけて西洋を撃滅する)を唱えて、義和団が蜂起しました。

「扶清滅洋」は幕末の「尊王攘夷」みたいなものですね。日本と違うのは、清は日本を主力とする連合国に鎮圧され、衰退していきました。

この後ロシアは満州を占領し、日本はロシアに対抗してイギリスと1902年「日英同盟」を結びました。

日露戦争

日清戦争の10年後「日露戦争」が始まります。イギリス・アメリカが戦費調達に協力したこともあり、日本は戦争を有利に進めていきます。

 「行くは死(1904年)か 日露戦争」

「旅順203高地での戦い」「奉天会戦」「日本海海戦」などの後、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介で「ポーツマス条約」が結ばれました。

            ポーツマス条約の内容
1 韓国における日本の優越権を認める
2 旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道利権を日本に譲る
3 北緯50度以南の樺太(サハリン)の割譲
4 沿海州・カムチャッカ半島の日本の漁業権を認める

日露戦争の講和条約「ポーツマス条約」が日清戦争の講和条約「下関条約」と違って、賠償金がなかったので日本国民が激しく政府を攻撃し、東京では日比谷焼打ち事件が起こりました。戦前戦後、軍費調達のため増税や新税の導入が行われ国民の負担は大きくなりました。

また歌人の与謝野晶子は、日露戦争に出兵した弟のことを思って「君死にたまうことなかれ」という詩を発表しました。他にキリスト教の立場からの「内村鑑三」や、社会主義からの「幸徳秋水」らが反戦を唱えました。

韓国併合

日露戦争後日本は韓国を保護国とし、首都漢城(ソウル)に韓国統監府を置き、初代統監に「伊藤博文」が就きました。1907年には日本は韓国皇帝を退位させ軍隊も解散させましたが、日本に対する抵抗はその後も続き、1909年伊藤博文が満州ハルビンで「安重根」に暗殺される事件が起こりました。

1910年には日韓併合条約が締結され(韓国併合)、朝鮮総督府を設置し、韓国を植民地化しました。学校では日本史や日本語を教える「同化政策」をとりました。

辛亥革命

中国では列強に対し、清を倒して近代国家を自立しようという動きがでてきました。

その中心となったのが「三民主義」を唱えた「孫文」です。1911年辛亥革命が勃発、アジアで最初の共和国である「中華民国」臨時政府が成立し、孫文が臨時大総統となりました。

清の軍人「袁世凱」が清を裏切り、自らが大総統になる条件で孫文と手を組み、1912年清を滅ぼしました。清の最後の皇帝「宣統帝(愛新覚羅溥儀)」は「ラスト・エンペラー」として映画にもなりました。

袁世凱は孫文から大総統の地位を譲り受けた後独裁的な政治を行ないましたが、死後中国は軍閥間の争いが起こることになりました。

不平等条約改正(関税自主権の回復)

1911年(明治44年)列強の仲間入りをした日本は、小村寿太郎が関税自主権の回復をアメリカに認めさせました。

1912年が大正元年なので、幕末の不平等条約の完全改正には明治いっぱいかかったということです。

年代 時期 内容 人物
1958年 江戸末期 日米修好通商条約 井伊直弼・ハリス
1904年 ノルマントン号事件後日清戦争直前 領事裁判権撤廃 陸奥宗光
1911年 日露戦争後 関税自主権回復 小村寿太郎

日本の産業革命

2015年世界遺産への登録で話題になった日本の産業革命ですが、本国イギリスの産業革命が18世紀後半からなのに対し、日本では製紙・紡績など軽工業の発達が日清戦争前後、鉄鋼・機械・造船など重工業は日露戦争前後に発達しました。1世紀以上の差があるわけですね。

世界遺産には全23施設が登録されました。軍艦島八幡製鉄所グラバー亭などが興味をひきます。

財閥・労働問題

産業の発展とともに、労働者が増加し労働問題が起こります。長時間労働と低賃金に苦しむ労働者は労働争議を起こします。労働組合の結成などに伴い、日本でも社会主義が成長しました。1910年の「大逆事件」では幸徳秋水はじめ、多くの社会主義者が逮捕され、12人が処刑されました。

一方、三井・三菱・住友・安田などの大資本家は、金融・貿易・鉱業など様々な分野に進出し、日本経済を支配する「財閥」に成長していきました。

足尾銅山鉱毒事件

産業の発展は公害問題を生みだしました。

当時銅は日本の重要な輸出品でした。1890年頃、国内最大の産出量があった「足尾銅山」から渡良瀬川流域に鉱毒が流出し、大きな社会問題になりました。

衆議院議員の「田中正造」は議員を辞職して明治天皇に訴えたりして、生涯この問題に取り組みました。水質汚染は次第に解決しましたが、煙害問題が解決するのは1956年を待たなければいけませんでした。

足尾銅山鉱毒事件は日本の公害問題の原点とされています。

明治の文化

明治時代の文化・芸術・科学は表にまとめました。

文学 坪内逍遥
二葉亭四迷
森鴎外
夏目漱石
島崎藤村
樋口一葉
石川啄木
小説神髄
浮雲
舞姫
吾輩は猫である
若菜集
たけくらべ
一握の砂
美術 フェノロサ・岡倉天心
横山大観
黒田清輝
高村光雲
日本画の復興
日本画
印象派の洋画
彫刻
医学 北里柴三郎
志賀潔
野口英世
破傷風
赤痢菌
黄熱病

塾で教える日本の歴史 21   明治維新(明治時代 1)

五箇条の御誓文

新しい政府は天皇を中心として様々な改革を行ないました。

明治政府の改革とそれに伴う社会の動きを「明治維新」といいます。

新政府はまず明治天皇が神に誓うという形で「五箇条の御誓文」を発表しました。

「広く会議を興し万機公論に決すべし」

  広く会議を開き、何事も人々の意見を聞いて決めること。

「上下心を一にして盛んに経綸を行なうべし」

  身分の上下に関わらず心を一つにして、国を豊かにすること。

「官武一途庶民に至るまで各々その志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す」

  役人・武士・庶民がそれぞれ願いをかなえられ、人々がうんざりするような事をしてはいけない。

「旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし」

  悪い習慣は捨て天然自然の原理に基づいた政治を行なうこと」

「知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」

  世界から色々なものを学び、天皇の政治が栄えるようにすること。

  五箇条で ひとつやろーや(1868年)明治維新

同時に民衆に対しては、「五榜の掲示」が出され、「道徳の順守・民衆運動の禁止・キリスト教の禁止・攘夷の禁止・脱走の禁止」などが書かれていました。五箇条の御誓文が理想的な政治を行なおうとするのに対し、民衆に対する五榜の掲示は江戸時代と変わっていないようです。

その後江戸を東京と改称し、年号は慶応から明治に改められました。これ以降、天皇一代にただ一つの年号を用いる「一世一元の制」がとられるようになり、東京が日本の新しい首都になりました。

版籍奉還と廃藩置県

明治政府が目指したのは、天皇中心の中央集権国家でした。

そのために政府は「版籍奉還」と「廃藩置県」を行ないました。内容もそうですが、この順番も大事ですよ。

版籍奉還・・・藩はまだ残して、藩主(大名)が持っている土地と戸籍(人民)を朝廷に返させた。(公地公民みたいですね)

廃藩置県・・・藩を廃止して県を置き、各県には県令(後に県知事)を中央から派遣しました。(東京・大阪・京都には府知事)

藩がなくなった藩主(大名)は華族として、しばらくは俸禄が与えられました。

 士族らが、イヤでむくれる(1869年)版籍奉還

 藩とは 言わない(1871年)県という

藩閥政治

武力討幕の中心は、一部の公家と薩長土肥の4藩でした。

明治維新後はこの4藩の出身者が政治の実権を握るようになりましたので「藩閥政治」と呼ばれました。

太政大臣に「三条実美」、右大臣に「岩倉具視」、参議に「西郷隆盛(薩摩)」「木戸孝允(長州)」「板垣退助(土佐)」「大隈重信(肥前)」等の名がみえます。

岩倉使節団

1872年明治政府は岩倉具視を全権大使として欧米に使節団を派遣しました。

岩倉具視ほか大久保利通・伊藤博文・木戸孝允などに女性の津田梅子津田塾大学創始者)も参加しました。

使節団は2年近くに渡って、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・ロシアを訪問し、欧米の進んだ政治・産業・社会を体験して帰国し、日本の近代化を進めていきました。

幕末の不平等条約の改正も進めようとしましたが不成功に終わり、近代的な法制度の必要性を痛感しました。

身分制度の廃止

明治政府は、天皇のもとに国民を一つにまとめようとしました。

皇族・華族(元公家・元大名)・士族(元武士)・平民の身分はありましたが、皇族以外は平等としました。平民も名字を名のることが許され、華族や士族との結婚も認められるようになりました。

「解放令」により、えた・ひにんの呼び名は廃止されました。

「ちょんまげ」「帯刀」が禁止され、華族・士族への米の支給も廃止されましたので、士族の不満が高まっていきます。

富国強兵

明治政府は欧米列強に対抗するため、経済を発展させて国力をつけ、軍隊を強くすることを目指しました。

そのための政策を「富国強兵」といいます。富国強兵政策の主要なものは、「学制・徴兵令・地租改正」そして「殖産興業」です。

・学制の公布・・・6歳以上の男女に小学校で教育を受けることが義務化され、小学から大学までの学校制度が定められました。(1872年)

幕府の施設を受け継いだ東京大学等、高等教育機関がつくられました。

・徴兵令・・・武士という身分がなくなったので、政府は満20歳以上の男子に、士族・平民に関わらず兵役の義務を負わせました。(1873年)

・地租改正・・・国家財政を安定させるため、政府は米(年貢)に代わり現金で税(地租)を納めさせました。(1873年)

①土地の所有者と地価を定め、地券を発行。

②課税の基準を収穫高から地価に変更。

③税率は地価の3%とし、土地の所有者が現金で納める。

地租改正では税の負担は今までと同じかむしろ増えたので、各地で地租改正反対の一揆が起きました。

このため後に地租を地価の3%から2.5%に引き下げました。(1877年)(これ入試にでましたよ)

殖産興業・・・政府は近代産業を育て「富国」を実現するため「殖産興業」を進めました。

1872年群馬県に富岡製糸場など官営模範工場が作られ、生糸の増産を図りました。

その富岡製糸場は2014年世界遺産に登録されました。

製糸場で働く女子労働者の労働環境は、映画にもなった「ああ野麦峠」で代表されるように過酷なものであったかどうか、調べていくと色々な意見があって、真実は何か見極めが難しいですね。

文明開化

明治になり欧米の文化が積極的に取り入れられ、都市を中心に伝統的な生活が変化するようになりました。これを文明開化と呼びます。

「ちょんまげ頭を叩いてみれば、因循姑息の音がする。ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」と歌われました。

洋服・コート・帽子が流行し、牛肉を食べビールを飲み、レンガ造りの欧米風建物が建てられ、道路には人力車や馬車が走り、ランプやガス灯が設置されました。

新橋・横浜間に鉄道が開通し、郵便制度も整えられました。

太陽暦が採用され、1週間が7日になり、日曜日が休日になりました。

新しい貨幣も発行され、人々の生活は激変しました。

欧米の近代思想が紹介され、福沢諭吉は「学問のすすめ」を書き、中江兆民は「ルソーの思想」を紹介しました。福沢諭吉は「慶応義塾大学」、政治家の大隈重信は「早稲田大学」、新島襄は「同志社大学」を創設し、多くの人材を育てました。

北海道と沖縄

明治政府は蝦夷地を北海道と改め、「北海道開拓使」という役所を置きました。開拓は各地から移住してきた士族である「屯田兵」が中心となり、労働力の不足分から先住民族である「アイヌ」の人々も集められました。

琉球王国は薩摩と清との二重統治状態にありましたが、1879年政府は600名あまりの軍隊を送り込み、島民の反対を押し切って「沖縄県」を設置しました。これにより琉球王国は消滅しました。(琉球処分

明治初期の外交

・清・・・日本と清は対等な立場での条約を結びました。1871年日清修好条規

・朝鮮・・・朝鮮国(李氏朝鮮)は清とは朝貢関係にあり、欧米に対しては鎖国状態でした。日本に対しても国交を開かなかったので、日本では武力で開国を迫る「征韓論」が高まりました。征韓論は板垣退助が主に唱え、西郷隆盛は出兵ではなく、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、「遣韓論」の立場だったようです。

当時欧米を歴訪していた岩倉具視や大久保利通ら遣欧組は帰国後、国力の充実が先であるとして、派遣を中止させました。その結果政府は分裂し、使節の派遣を主張していた西郷隆盛や板垣退助ら約600人が政府を去りました。(1873年・明治6年の政変

その後日本は朝鮮と開国交渉を進め、1875年の江華島事件をきっかけに、1876年日朝修好条規を結びました。これは日本に有利な不平等条約でしたが、朝鮮を独立国と認め、清の宗主権を否定しましたので、日本と清は対立を深めていきました。

・ロシア・・・1875年樺太・千島交換条約を結び、樺太(サハリン)はロシア領、千島列島は日本領としました。千島列島の一部、択捉・国後・色丹・歯舞4島は太平洋戦争終了後ロシア(当時はソ連)に占拠されて未だ変換されていません。これを 北方領土問題といい、現代の日本でも難しい課題となっています。

・欧米との関係・・・幕末に欧米諸国と結んだ不平等条約の改正も政府の大きな課題として残っています。近代化のため日本は欧化政策を進めると共に、法律の整備にも力を注いでいきました。

西南戦争

明治になり政府のやり方に不満を持った武士は各地で反乱を起こしました。

・廃藩置県・・藩からの給与がなくなる。

・四民平等・・武士の特権がなくなる。

・徴兵令・・戦士としての価値がなくなる。

・廃刀令・・帯刀ができなくなる。

・欧化政策・・伝統的な価値観を否定される。

・明治政府内の腐敗・・山県有朋や井上馨らの汚職が明るみになる。

・下級武士への恩賞が不十分であった。

以上のような不満がたまり、1870年代に「佐賀の乱」「萩の乱」「秋月の乱」など士族の乱が主に西日本で起こりました。

そんな中、明治6年の政変で政府を去った西郷隆盛は鹿児島に戻り、私学校をつくり若者の教育に努めました。1877年西郷は彼を慕う鹿児島の士族たちのために負けを覚悟して「西南戦争」を起こしました。

映画「ラスト・サムライ」のモデルになったといわれる程大規模な乱でしたが、徴兵制によってつくられた政府軍の近代兵器や物量の前に敗れ去り、西郷は自害しました。

この頃政府の中心人物は西郷の盟友「大久保利通」でしたので、昔の親友同士が戦うという悲劇的な結末です。西郷隆盛は勝海舟と共に江戸無血開城をなしとげ、明治維新を成し遂げた中心人物です。今も国民の人気は根強いものがありますね。そういう人物を滅ぼした明治政府には疑問符がつきます。

  いやなみだなみだ(1877年)の西南戦争

大久保利通も翌1878年暗殺されました。

塾で教える日本の歴史 ⑳ 幕末の政争(江戸時代 4)

ペリーの来航

いわゆる幕末はペリーの来航から始まります。ペリーの来航が1853年、大政奉還が1867年。

ペリーの来航からわずか14年で江戸幕府は瓦解するわけです。

アジアとの交易を望んだアメリカは、東インド艦隊司令長官ペリーを日本に派遣しました。

1853年ペリーは旗艦「サスケハナ号」に乗りこみ、合計4隻の軍艦(黒船)を率いて浦賀(神奈川県)に来航しました。目的は「日本を太平洋横断航路の中継地にするため」です。捕鯨船の寄港地が必要だったということもあります。

人々はアメリカの巨大な軍艦に驚き動揺しました。

 「泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船) たった四杯で夜も眠れず」

ペリーは日本の開国を求めるフィルモア大統領の国書を幕府に差し出しました。

当時の第12代将軍徳川家慶は病に臥せっており、それを理由に幕府は1年の猶予を求め、ペリーは帰っていきました。

 「いやでござんす(1853年)ペリーさん」

混乱する幕府は、老中首座阿部正弘が大名の意見を聞いたり、朝廷に報告をしたりしたため、大名や朝廷の発言権が強まっていきました。これまで幕府は政治について朝廷や大名に相談したことがなかったため、幕府の弱体化をさらけだすことになりました。

また阿部正弘はペリーが再来するまでに、江戸防備のため砲台をつくりました。これが今人気のウオーター・フロント「お台場」です。またペリー来航後にロシアの「プチャーチン」も軍艦と共に長崎にきています。「プーチャン」ではないですよ。

日米和親条約

ペリー退去後まもなく家慶が亡くなり、13代将軍に徳川家定が就任しました。

家定は体が弱かったようで、将軍になったばかりで将軍継嗣問題がおこります。

御三家の一つ「紀州」の「慶福(後の家茂)」と御三卿の一つ「一橋」の「慶喜」の跡目争いです。

また家定の正室は有名な天璋院篤姫です。

欧米列強は、この頃軍事力で世界を支配しようとする「帝国主義」という考えで次々とアジアの国々を植民地化していました。実際欧米は日本を狙っていました。

アヘン戦争などの結果をある程度把握していた幕府は、軍事力の前に「開港やむなし」という考えになっていましたが、朝廷や大名たちは「異人打つべし」という攘夷の意見が主流でした。

翌1854年、今度は9隻の黒船と共に再び来日したペリーの開国要求に対し、全権の林大学頭(昌平坂学問所学頭)は「日米和親条約」をアメリカと結びました。

日米和親条約では通商まではせず、下田(静岡)と函館(北海道)を開港し、アメリカ船に食料や水、石炭などを供給することを認めました。

ちなみにこの時、日本で初めて「名刺」が使われたようです。「今でしょ」の「林先生」がおっしゃってました。

幕府は同様の条約をイギリス・ロシア・オランダとも結びました。

これにより1639年以来の「鎖国」は215年で終わりを告げました。

(いやまだ開国していないという意見もあります)

 いやでも ごりおし(1854年)日米和親

日米修好通商条約

和親条約の規定をもとに、アメリカは総領事ハリスを送り込みます。ハリスは江戸城に乗り込み将軍家定に謁見しました。

時の老中堀田正睦は通商を認めざるとえないと判断しますが、一応天皇の勅許を得ようと上京しました。

これまで幕府の政治に口を出すことができなかった朝廷ですが、時代は変わっていました。

攘夷を主張する孝明天皇は公家たちの意見もあって条約勅許を拒否します。

天皇から勅許を得ることに失敗した堀田正睦は失脚し、代わりに井伊直弼が大老に就任しました。

井伊直弼は、天皇の勅許を得ないまま、強引に日米修好通商条約を結びました。(1858年)

・函館・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)5港の開港(下田は閉じられました)

・この条約は「不平等条約」だったため、後ほどまで明治の日本を苦しめます。

①「領事裁判権」を認めた。外国人が犯罪を犯しても日本で裁判にかけられない、治外法権を認めてしまいました。

②関税自主権がなかった。関税とは輸入の際物品にかける税のことで、関税自主権がないと貿易で不利益になります。

領事裁判権の撤廃に成功するのは、1894年日清戦争の直前のことです。

また関税自主権の回復は1911年、大正時代に入る前年のことです。実に53年後です。

開国の影響

外国との貿易が始まると、外国からは毛織物・綿織物・武器等が輸入され、日本からは生糸・茶などが輸出されました。

ペリーやハリスを送り込み日本を開国させたアメリカですが、1961年より南北戦争がおこり、日本どころではなくなっていましたので、貿易相手国はイギリスが中心となりました。当初外国との金銀交換比率の違いから大量の金貨が流出しました。これに対抗しての貨幣改鋳や生糸の買い占めもあり、物価は上昇し日本経済は大きな打撃を受けました。

井伊直弼

大老とは老中の上に置かれる臨時職で、強い幕府の復活を期待されての就任でした。

事実井伊直弼は強引に開国を進めました。そうでないと欧米に植民地化される危険性があったのです。

アヘン戦争、アロー戦争後中国(清)は英仏の植民地化とされ、インドも「インド大反乱」後イギリスの植民地となりました。

幕府の開明派は開国し、貿易をすすめ、その利益で欧米に対抗できる軍事力を持とうとしました。

しかし朝廷の意向を無視して日米修好通商条約を結んだことに対して、外国に屈服したとして大きな批判が巻き起こりました。

それは朝廷を盛りたてようとする尊王と、外国を打ち払うべしとする攘夷が結びついた「尊王攘夷運動」に発展しました。

これに対して井伊直弼は厳しい弾圧を加えました。

安政の大獄です。(1858年〜1859年)

表は安政の大獄での処罰者です。

安政の大獄で処刑された主な人々 
人名 身分  処罰 
徳川斉昭(とくがわ なりあき) 前水戸藩主   永蟄居(永久的に謹慎)
松平慶永(よしなが) 春獄 越前藩主 隠居 
橋本佐内(はしもと さない)  越前藩士 死罪 
一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ) 一橋家当主  隠居 
徳川慶勝(とくがわ よしかつ)  尾張藩主  隠居 
頼三樹三郎(らいみきさぶろう) 学者  死罪 
吉田松陰(よしだ しょういん)  松下村塾塾長 死罪 
 

井伊直弼は次期将軍として徳川慶福(後の家茂)を推していましたので、攘夷派の徳川斉昭や15代将軍となる慶喜も処分しました。また朝廷・公家も含め全部で100人以上が処罰されました。松下村塾塾頭の吉田松陰死罪にしました。松下村塾からは「高杉晋作」「木戸孝允」「伊藤博文」などが世にでています。

さて強引すぎる政治のせいで評判が悪い井伊直弼ですが、禅・国学・和歌など諸学芸に通じ、茶人としても知られています。また「この出会いは一生に一度の出会いだと思って、人との出会いを大切にする」という意味の「一期一会」という言葉を残しました。意外な面がありますね。

桜田門外の変

安政の大獄以後、井伊のやり方に不満を持った人が多くいました。

そしてついに井伊は江戸城桜田門の近くで元水戸藩士らに暗殺されてしまいました。

 直弼憎し、人は群れ(1860年)なす桜田門

井伊直弼の暗殺により、幕府の権威は地に落ち、崩壊を早めました。

井伊大老亡き後幕府の中心となったのは、安藤信正です。

公武合体

安政の大獄の真っただ中、14代将軍徳川家茂が13歳で就任します。

家茂は評価が高い将軍ですね。英明な風格を備えており、勝海舟をはじめ幕臣からの信望厚く、忠誠を集めたと言われています。勝は、「若さゆえに時代に翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれない。武勇にも優れていた人物であった」と評価し、その死に関しては「家茂さまの御薨去をもって徳川幕府は滅んだ」と嘆息したと伝えられています。

幕府では公武合体論」が唱えられました。天皇・公家勢力と武家である幕府とが一致協力して難局に当たろうとするものです。孝明天皇は攘夷派ではありますが、「佐幕派(幕府を補佐する)」でもあります。公武合体として、孝明天皇の妹「和宮」が家茂の妻として降嫁しました。かわりに家茂は天皇に「攘夷」を約束させられました。

皇女和宮は中山道を通って江戸に入られました。途中地元桶川で一泊したということで、今でも桶川市では和宮の行列を再現した市民祭りが毎年11月に行なわれています。泣く泣く将軍に降嫁した和宮でしたが、家茂とは仲睦まじかったといいます。

徳川家茂の肖像画を初めて見た高校生のとき、まるで漫画みたいな将軍がいるな、と思ったほどでした。ハンサムでかっこいいと思いませんか。大河ドラマ「篤姫」では「松田翔太」が演じました。妻の和宮は堀北真希でしたね。

各藩の攘夷

風雲急を告げる幕末。様々な事件が起こりますが、時系列で整理しました。

1862年1月 坂下門外の変・・老中安藤信正が水戸浪士に襲われ負傷

     4月  寺田屋事件・・薩摩藩島津久光が京都の薩摩藩尊王攘夷派を一掃した

         (同じ寺田屋では後に坂本龍馬も襲撃される)

     8月 生麦事件・・江戸から京都へ向かう島津久光一行の通行を妨害したイギリス人4人殺傷。

    12月 長州藩士による英国公使館焼き討ち

1863年 3月 徳川家茂229年ぶりに上洛

     5月 下関事件・・長州藩下関で外国船を砲撃。英米下関に報復攻撃。砲台を破壊

     7月 薩英戦争・・事件後薩摩藩と英国は接近

     8月 8月18日の政変・・京都から攘夷派が一掃される

1864年 7月 池田屋事件・・池田屋に潜伏していた長州藩土佐藩などの尊王攘夷志士を、

                                   幕府京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。

     7月 禁門の変(蛤御門の変)・・長州藩が御所襲撃。薩摩藩・会津藩が長州藩を京都から駆逐

     8月 馬関戦争・・英米仏蘭連合軍、下関砲撃。長州敗北。

    11月 第一次長州征伐・・朝敵となった長州へ幕府・薩摩が出兵。長州は恭順。

    12月 高杉晋作、下関で挙兵(長州は討幕へ)

薩長同盟

佐幕派の薩摩と討幕派の長州は犬猿の仲でしたが、次の時代を切り開くには、薩摩と長州が組む必要があると考えた人物がいました。高知藩を脱藩した「坂本龍馬」です。

坂本龍馬の仲介で、1866年薩摩藩の「西郷隆盛」「大久保利通」「小松帯刀」、長州藩の「桂小五郎(木戸孝允)」らが薩長同盟を結びました。薩長とも列強に対抗できる統一国家を作るため幕府を倒す必要があると考えたのです。

 いや無理無理(1866年)薩長同盟

同年の「第二次長州征伐」では、薩摩は幕府の出兵要請を断ったため、長州の勝利に終わりました。

この戦いの最中に大阪城で徳川家茂が病死しました。

大政奉還

家茂の後第15代最後の将軍についたのは徳川慶喜でした。

尊王攘夷派の中心水戸藩出身の慶喜が将軍につくことにより、幕府の滅亡は決まったようなものではないでしょうか。事実、後の「鳥羽伏見の戦い」では、朝敵になることを避けて官軍の前から江戸に逃げ帰っています。

しかし、この慶喜将軍就任時点では、慶喜は尊王派、孝明天皇は佐幕派でしたので、公武合体の効果もあり、幕府改革が進み幕府存続の可能性もありました。

しかし、まもなく孝明天皇が急死します。討幕派の公家や薩長によって殺害されたとの説がありますが、ありえる話ですね。孝明天皇の急死により、公武合体は意味を失います。

事ここに至って、1867年慶喜は政権返上を明治天皇に上奏しました。(大政奉還)

大政奉還は、坂本龍馬が「船中八策」を後藤象二郎に提示し、土佐藩主の「山内容堂」が建白書を慶喜に提出して実現しました。

当時幕府はフランスの、薩長はイギリスの協力を得ていましたので、この2国の介入を防ぎ日本の植民地化を防ごうとして、薩長との全面戦争を避けるため政権を返上したといわれています。

大政奉還後も朝廷には国政運営能力がないので、引き続き徳川が政権運営できるとの読みも慶喜にはあったようです。大政奉還後は、天皇のもとで諸大名が集まる議会を作り、その中で最大の大名である徳川家が実質的な支配を続けられると考えたのです。

 いやむなし(1867年)大政奉還

大政奉還の1か月後、坂本龍馬が暗殺される「近江屋事件」が起こります。

教科書では無視される龍馬暗殺ですが、犯人は誰か? 歴史好きは本能寺の変と同じように犯人探しの推理を楽しんでいます。京都見回り組新撰組・薩摩藩陰謀説・果ては外国人陰謀説もあって面白いですね。

武力討幕を目指す薩長にとって、龍馬が邪魔になったという説も納得できます。というのも坂本龍馬は「徳川慶喜」を中心とした諸大名の合議制での新しい日本を考えていたようです。穏やかな改革ですね。薩長犯人説は一般には認められた説ではありませんが・・・・・

王政復古の大号令

大政奉還の直前、薩長は幕府を倒せとの「討幕の密勅」を明治天皇より得ようとしていました。ところが大政奉還により倒すべき幕府がなくなってしまいました。

これに対して、薩摩の西郷隆盛や大久保利通は長州の木戸孝允や公家の岩倉具視らと結んで朝廷を動かし「王政復古の大号令」を発し、天皇中心の政治に戻すことを宣言し、同時に慶喜追放と領地没収(辞官納地)を命じました。

王政復古の大号令は徳川家の力を剥ぎ取る強硬策であるため、クーデターだといわれます。

戊辰戦争①鳥羽伏見の戦い

大政奉還したとはいえ、徳川家は所領400万石の日本最大の大名です。辞官納地に不満を持つ旧幕府軍は新政府軍と戦いを始めます。旧幕府軍と新政府軍との戦いを「戊辰戦争」といいます。

幕府軍のリーダーは「徳川慶喜」そして新政府軍は「西郷隆盛」が参謀となって、先ず京都の「鳥羽・伏見」で激突します。ところが薩長軍には切り札がありました。「錦の御旗」です。錦の御旗を掲げるものは天皇の軍であるという意味ですので、天皇の軍と戦う幕府軍は朝敵ということになります。

水戸藩は以前より「もし徳川家と天皇家が戦うことがあれば、天皇の味方をする」ことになっていました。その水戸藩出身の慶喜が最後の将軍になったのは皮肉なものです。その慶喜が錦の御旗に逆らえるはずがありません。慶喜は大阪城を脱出、海路江戸に戻り、謹慎することになりました。錦の御旗を見た幕府の武士たちは戦う意欲をなくし、敗走します。

戊辰戦争②江戸城無血開城

官軍(天皇の軍隊)となった薩長土肥の軍隊は、江戸にせまりました。このままでは江戸が焼け野が原になってしまいます。ところが江戸城攻めの直前、二人の英雄がこれを救います。

徳川の陸軍総裁「勝海舟」と大総督府下参謀「西郷隆盛」の歴史的会談により、江戸総攻撃中止が決まりました。西郷隆盛が勝海舟の説得に応じ、これにより旧幕府軍は江戸城を無抵抗で明け渡し、新政府軍は江戸攻めを中止するという「江戸城無血開城」が実現しました

戊辰戦争③五稜郭の戦い

薩長土肥軍は江戸城に入城しましたが、旧幕府軍の一部は東北へそして北海道へ向かい抵抗を続けました。このあたり瀬戸内海における平氏の敗走を思い浮かべてしまいますね。

東北全部と越後北部の31の藩は「奥羽越列藩同盟」を結成し、新政府軍に対抗します。

この「奥羽越列藩同盟」は薩長による新政府に対抗する「北日本政府」を目指したようで、明治天皇の伯父にあたる「輪王寺の宮」が「東武天皇」、仙台藩主「伊達慶邦」が「征夷大将軍」といった名簿まで作られていたようです。

上野戦争・長岡での上越戦争・会津での戦いを経て、最後は北海道函館での「五稜郭の戦い」です。

北海道でも旧幕府軍は榎本武揚を中心に独立国をもくろんでいました。しかし敗戦。

五稜郭の戦いでは、新撰組副長の 「土方歳三」が戦死し、徳川海軍副総裁「榎本武揚」が降伏し、戊辰戦争は幕を閉じます

ちなみに榎本武揚は東京農業大学の創始者です。埼玉では「農大三高」が人気ある私立高校ですので親しみがあります。

さてこの後明治維新を迎えるのですが、明治以降は「戦争の歴史」といってもいいくらい戦争が多く、教える方も暗くなります。江戸時代は何だかんだ言っても平和な時代だったと思うのです。

おまけ

幕末では、教科書には載っていない色々な組織があります。

テストにはでませんが、ここでまとめてリンクをつけておきましょう。歴史の知識とはそういうものです。

奇兵隊・・・1863年長州藩高杉晋作が結成した庶民中心の部隊。攘夷から倒幕へと活躍した。

天誅組・・・1863年土佐脱藩の吉村虎太郎が結成。尊王攘夷派。

新撰組・・・1863年結成。京都において反幕府を取り締まる。京都守護職傘下。近藤勇局長他土方歳三・沖田総士が有名。

       制服は「忠臣蔵」を参考にしたダンダラ羽織。

京都見廻り組・・・1864年京都守護職・会津藩主松平容保のもとに結成。新撰組と違い武士で組織される。

海援隊・・・1865年坂本龍馬が結成した亀山社中が前身。商社活動や政治活動を行なう。日本最初の会社ともいわれる。

彰義隊・・・1868年幕府により江戸市中見回りを目的として結成される。上野戦争で新政府軍に敗れる。

白虎隊・・・1868年会津藩にて結成。16歳・17歳の武士の子からなり、会津戦争で1名を除き全員が自刃。

塾で教える日本の歴史 ⑲ 江戸幕府の3大改革(江戸時代 3)

享保の改革

8代将軍徳川吉宗は御三家の一つ紀伊の藩主でした。

吉宗は米の値段の安定に努めたので「米公方」とも「暴れん坊将軍」ともいわれます。(冗談です。暴れん坊将軍はテレビドラマでした。)

当時幕府は財政難に苦しんでおり、そのため吉宗は武士に質素・倹約を命じました。

徳川吉宗の財政改革の政治を「享保の改革」といいます。

上げ米の制・・・参勤交代をゆるめるかわりに、各藩から幕府に米を献上させました。

・足し高の制・・・優秀な人物を取り立てるにあたって、役職についている間は米を支給し石高を上げ採用していく制度です。役職から外れたら元に戻しました。

公事方御定書・・・裁判の基準を定めました。

・目安箱の設置・・・庶民の意見を聞き政治に生かしました。

・農業対策・・・新田開発を奨励し、年貢率を上げ、豊作不作にかかわらず年貢率を固定しました。増税ですね。

これにより、一時的に幕府の財政は好転しました。

しかし貨幣経済の進展で貧富の差が広がり、農村では百姓一揆が、都市では打ちこわしが起こりました。

 享保は いいな ヒーロー(1716年) 徳川吉宗

徳川吉宗の子で9代将軍徳川家重はあまり評判がよくありませんが、障害者(脳性まひ)であったという説もあります。

障害者であっても頭脳は明晰であったので将軍になれたのでしょうか。江戸時代ならではかもしれません。

吉宗及び家重の子から、御三家に次ぐ御三卿(田安家・一橋家・清水家)の三家が分立し将軍後継者を提供する役割を担いました。

田沼意次の政治

家重に取り立てられ、10代将軍徳川家冶の治世下で老中となったのが田沼意次です。

意次で思い浮かべるのは「ワイロ政治」ですが、実際はどうだったのでしょう。

田沼意次は商工業者の力を利用して幕府財政を立て直そうとしました。

・株仲間をつくることを奨励し、特権を与えるかわりに営業税をとりました。

・また、長崎での貿易を活発にし、蝦夷地の開発計画をつくり、清へ俵物を輸出し、ロシアとの通商も考えていました。

・印旛沼の干拓を行ない、新田を増やしました。

意次の時代は、積極的な経済政策で、自由な風潮が生まれ学問や芸術が発展しましたが、地位や特権を求めて「ワイロ」が横行しました。

1782年天明のききん、翌年の浅間山大噴火があり、百姓一揆が増加し、意次は失脚しました。

 ワイロは いいな なに(1772年)が悪い

寛政の改革

田沼意次失脚前後、各地で百姓一揆や打ちこわしが起き、世の中は混乱していました。

11代将軍徳川家斉のもと、老中首座「松平定信」が祖父である徳川吉宗の政治を理想とする改革を始めました。

享保の改革と同じように、武士に質素・倹約を求めました。

・囲い米・・・凶作・ききんに備えるため、各地に倉を設けて米を蓄えさせました。。

・旧里帰農令・・・農村復興のために、江戸などに出稼ぎに来ていた農民を村に帰しました。

・寛政異学の禁・・・昌平坂学問所をつくり、朱子学以外の学問を禁じました。

・棄捐令・・・旗本・御家人の生活苦を救うため札差からしている借金を帳消しにしました。

寛政の改革は、非常に厳しいものであったため、民衆の不満が高まり失敗に終わりました。

「白河の清きに魚の住みかねて、もとのにごりの田沼恋しき」

諸藩の財政改革

江戸時代でも17世紀(1600年代)は、元禄時代を代表として、文化・経済とも順調に見えます。

しかし18世紀に入ると、幕府も藩も財政赤字に苦しむようになります。

要因は「農村からの収入の減少」が考えられます。

江戸時代は「小氷河期」に入ったとされ、天候不順な時代だったようです。

天災飢饉の頻発と共に貨幣経済の進展による貧富の差が拡大し、農村は疲弊していったと考えられます。

貨幣経済の進展とともに商人の力が増していくのですが、商人に対する幕府・藩の課税が充分ではなかったのではないでしょうか。

富裕町人は大名にお金を貸し(大名貸し)高い利息を取ったので、藩は赤字に苦しむようになります。

財政難に苦しむ諸藩は、藩札と呼ばれる独自紙幣を発行したり、家臣の俸禄を減らしたりしました。

「武士は食わねど、高楊枝」ですね。

藩政改革として米沢藩(山形)の「上杉鷹山」が有名です。

新しい学問(文化文政の時代)

18世紀後半から19世紀、11代将軍徳川家斉の時期を中心とするのが「化政文化」です。

寛政異学の禁は「昌平坂学問所」という幕府設立の、いわば国立大学だけの話で、江戸時代には「万葉集」や「源氏物語」など日本の古典に関する学問が進みました。

18世紀半ば、本居宣長は日本古来の伝統を評価する「古事記伝」を著し、国学を大成しました。

また杉田玄白や前野良沢が、ヨーロッパの解剖書を翻訳した「解体新書」を出版し、平賀源内は「エレキテル(発電器)」を発明、シーボルトが長崎で「医学塾」を開くなど、「蘭学」(オランダ語でヨーロッパ文化を学ぶ)が盛んになりました。

伊能忠敬は全国の海岸線を測量し、正確な日本地図を製作しています。

教育では、京都や大阪で学者が私塾を開き、武士だけでなく町人・百姓も入門しました。

大阪の医者緒方洪庵の「適塾」には全国から弟子が集まったほか、諸藩でも「藩校」で武士に学問を教え、庶民は「寺子屋」で「読み書きそろばん」を習いました。

寺子屋は今の小中学校のようなもの? それとも学習塾のようなものでしょうか? 藩校は、今も高校の名前に残っていますね。山形米沢の「興譲館」がその例です。

化政文化

19世紀初めには文化の中心が、江戸に移りました。

この時代の庶民中心の文化を、文化文政の元号から「化政文化」と呼びます。

江戸時代の2つの文化は表で覚えていきましょう。

  元禄文化 化政文化
時代 17世紀後半〜18世紀前半 18世紀後半から19世紀前半
特色 上方(大阪・京都)中心 江戸中心
文学 小説・・井原西鶴
人形浄瑠璃・・近松門左衛門
俳諧・・松尾芭蕉
小説・・十返舎一九・滝沢馬琴
俳諧・・与謝蕪村・小林一茶
狂歌・川柳の流行
絵画 装飾画・・尾形光琳浮世絵・・菱川師宣 錦絵・・喜多川歌麿・葛飾北斎  東洲斎写楽・歌川(安藤)広重

外国船の出現と異国船打ち払い令

1792年 ロシア「ラクスマン」が根室に来航。通商要求。

1804年 ロシア「レザノフ」が長崎へ来航。通商要求するが幕府は断る。

1808年 イギリス「フェートン号事件」軍艦が長崎に侵入。まきと水、食料を要求。

1825年 異国船打ち払い令

1837年 アメリカ「モリソン号事件」日本の漂流民を送り届け、通商を要求するが砲撃する。

1839年 「蛮社の獄」外国船打ち払いを批判した、渡辺崋山と高野長英を処罰。

天保の改革

1830年代に天保の飢饉が全国を襲い、多くの餓死者がでて、百姓一揆や打ちこわしも頻繁に起こりました。

元大阪の町奉行所の役人「大塩平八郎」は奉行所の対応に不満を持ち、1837年弟子など300人で大商人を襲い、米や金を苦しむ人々に分けようとしました。(大塩の乱)幕府は役人の蜂起に衝撃を受けました。

12代将軍徳川家慶のとき、老中水野忠邦は幕府の力を回復させようと「天保の改革」を行ないました。

江戸の3大改革(享保・寛政・天保)はみんな内容が似てるのでややこしいですね。

倹約を勧める・農村の強化(年貢の強化)・株仲間の解散・武士の救済などが共通しています。

その天保の改革の内容です。

・倹約令・ぜいたく品の禁止・出版・風俗の取締

・農村の再建・・農民の出稼ぎ禁止・人返し令(農村に帰らせる)

・株仲間の解散・・物価引下げをはかった

・印旛沼の干拓を再開

・異国船打ち払い令をやめて、薪水給与令をだす。(燃料と食糧の補給を認める)

アヘン戦争で清がイギリスに敗北したことを知ったため。

・改革の失敗・・江戸や大坂周辺の農村を幕領にしようとしたが大名や旗本の反対で失敗。

          水野忠邦は2年で老中をやめさせられました。

雄藩の成長

薩摩藩・長州藩・肥前藩は財政立て直しに成功し、雄藩として政治的発言権を持つようになりました。

渋染一揆

岡山藩で出された倹約令に、えた身分への差別が含まれていたため、一揆や抗議がおき、藩は倹約令を実施できませんでした。

享保の改革でユーチューブを検索したら、予備校・塾の動画がいっぱいでてきました。

中学生向きのは味もそっけもないので、大学入試用の上の動画が一番面白かったです。噂の「マナビー」ですね。

中学生のみんなは予備校での大学入試講義の雰囲気を味わって下さい。全部覚える必要ないですよ。

勝手にリンクして良かったのでしょうか?

早英ゼミナール 塾長 矢頭嘉樹

塾で教える日本の歴史 ⑱ 江戸幕府の政治と社会(江戸時代 2)

江戸時代の身分制度

江戸時代は幕府徳川将軍を頂点として、藩を支配する大名とその家来である武士が支配階級でした。

全人口の約7%を占める武士は名字・帯刀などの特権がありましたが、忠誠・勇敢・信義・礼節・名誉・質素などを求める「武士道」を守らねばなりませんでした。「武士は食わねど高楊枝」という言葉はご存知ですか。特権には犠牲がつきものです。

人口の約85%を占めるのが「百姓」で、農業・林業・漁業で生活し、重い「年貢」を納めなければなりませんでした。

百姓には土地を持つ「本百姓」と土地を持たない「水のみ百姓」の区別があり、「庄屋・組頭・百姓代」などの村役人が村の自治を担い、年貢などを徴収して領主におさめました。また「五人組」の制度を作り、犯罪の防止や年貢の納入に連帯責任を負わせました。

江戸時代は農業が中心の社会でしたので、職人や商人などの町人は人口の約5%しかいませんでした。

また別に「えた・非人」とよばれる被差別民もいました。

現在では「士農工商」という言葉は「身分の上下」ではなく「職分を表したもの」とされており、教科書からは姿を消しています。

(勝海舟は「士農工商という差別」という言葉を使っていますので、幕末には身分の上下の意味で使われていたようです)

さらに「慶安の御触書」も存在が疑問視されており、教科書には載っていません。

また江戸時代の職業は世襲が原則とはいえ、百姓・町人の間では職業の移動は比較的容易であり、武士の下層(徒士)や足軽との身分移動もあったようです。

歴史も時代や研究によって姿を変えていくものです。今の教科書は私の習った頃とは違ってきています。教える方も最新の研究を取り入れないといけませんね。

もしこのブログでも間違いがあれば、教えて下さい。宜しくお願い致します。

江戸時代の農業と諸産業の発達

幕府や藩は「新田開発」に力を注ぎ、「千歯こき・備中ぐわ・とうみ・からさお」などの新しい農具が普及し生産性が向上しました。

また都市部で手工業の発展に伴い、農村でも「麻・わた・あぶらな・あい・べにばな」など商品作物の栽培が広まりました。

・鉱山・・・佐渡金山・生野銀山・石見銀山(世界遺産)・足尾銅山

・水産業・・・九十九里浜のイワシ漁(肥料のほしか)・蝦夷のニシン漁・コンブ漁など

・野田や銚子の醤油・灘の酒・瀬戸内海の塩・金沢や有田の磁器・輪島や会津の漆器・南部鉄器など

交通路の発達

参勤交代や諸産業の発達により、陸上や海上の交通が整備されました。

陸上では五街道(東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中)で街道には宿場町ができ、箱根などの要地には関所を置きました。

また手荷物や手紙を運ぶ「飛脚」も盛んになりました。

海上では、大阪と江戸を結ぶ「菱垣廻船(木綿・油・醤油)」と「樽廻船(酒)」のほか、

江戸から東北の太平洋沿岸を廻る「東廻り航路」や瀬戸内海から日本海を廻る「西廻り航路」がありました。

三都の繁栄

17世紀末の元禄時代頃より、都市が大きく発展しました。

江戸は「将軍のおひざもと」とよばれ人口約100万の政治の中心でありました。

大阪は「天下の台所」といわれ、商業や金融の中心となり、諸藩の年貢米や特産物が「蔵屋敷」に集まりました。

京都は文化・宗教の中心地でありました。また「西陣織・清水焼」など優れた工芸品を生産しました。

「下らない」という言葉の語源には諸説ありますが、上方(京都・大阪)の物が優れていたので、「下ってくるものではない。関東のものである」ということから「下らない」という言葉が生まれたという説も納得できます。

商人の台頭

都市では商人が同業者組織である「株仲間」を結成し、営業を独占しました。

また金銀の貨幣を交換し、金を貸しつける両替商が力をもち、大名にも貸付を行なったりしました。

ここで間違いやすい語句と時代をまとめておきましょう。

これで間違えませんね。

  室町時代 江戸時代
都市(町人) 株仲間
村(農民) 五人組

徳川将軍

家康から第4代将軍の家綱までの4人の将軍の業績をまとめておきます。

理科とか社会はこのように自分なりに簡単にまとめることが大切ですよ。

初代 徳川家康・・・

子どもの頃、織田家や今川家の人質として苦労しました。織田信長・豊臣秀吉と並ぶ3人の英傑の1人です。徳川幕府260年の基礎を築きました。

2代 徳川秀忠・・・

秀忠の名は秀吉から譲られたものです。正室は浅井3姉妹のひとり「お江」 お江と春日局といえば、大奥創設の逸話があるのですが、中学生には相応しくないのでしょうね。

3代 徳川家光・・・

生まれながらの将軍であるという自負を持ち、参勤交代・鎖国を実施しました。祖父である家康と伊達正宗を尊敬していたとのことです。

4代 徳川家綱・・・

わずか11歳で将軍を継承しましたが、「由井正雪の乱(慶安の変)」を側近の支えで乗り越え、幕府政治は安定していきました。末期養子禁止の緩和・殉死の禁止など、武断政治から文治政治へ政策を切り替えていきました。

徳川綱吉と生類憐みの令

第5代将軍徳川綱吉は評価が分かれる将軍です。

生類憐みの令」によって、人間より犬を大切にした犬公方=バカ殿という評価がある一方、戦国時代以来の武力による殺伐とした風潮を変えた功績もあります。

生類憐みの令は極端な動物愛護令で、犬にとどまらず猫・鳥などの殺生も禁じました。これにより関東の農民や江戸の町民はかなりの迷惑を被りました。しかし仏教の殺生を禁じた思想にもとづく綱吉の慈愛の政治という一面もあったようです。

 捨て犬を 拾わな(1687年)ければ打ち首だ

また綱吉は儒学、中でも身分秩序を重視する朱子学を奨励しました。

武家諸法度を改正し、弓馬の道から「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべきこと」と主君に対する忠・父祖に対する孝・礼儀による秩序を武士に要求しました。

綱吉の時代を元禄時代といいます。元禄時代は華やかな時代ですが、幕府財政も転換期を迎えました。綱吉は側用人・柳沢吉保や荻原重秀を重用しましたが、金銀の産出が減少し幕府財政がひっ迫すると、金の含有量を減らした質の劣る貨幣を発行しました。これにより貨幣価値が下落し物価が上昇し、人々の生活を圧迫しました。

綱吉の死後、後を継いだ第6代徳川家宣は生類憐みの令を廃止し、朱子学者の新井白石と側用人・間部詮房を信託して、貨幣の質を戻し、長崎貿易を制限しました。これは金銀の流出を防ぐねらいがありました。

6代家宣と7代家継、そして新井白石と間鍋詮房らが行なった政治を「正徳の治」といいます。

元禄赤穂事件(忠臣蔵)

日本史の中で、忠臣蔵」は驚くほど扱いが小さいです。中学の教科書は「赤穂事件」とか「忠臣蔵」の記載がなく、高校の教科書では「浅野長矩」と「吉良義央」の名前が欄外にかろうじて見えます。大石内蔵助の名前は見当たりません。ちょっとさびしいですね。

さて「赤穂事件」は1701年から1702年にかけて起こった実際の事件のことを指します。つまり「江戸城中で赤穂藩主浅野内匠頭長矩が高家吉良上野介義央を傷つけ浅野は切腹、翌年浅野家の遺臣たちが吉良を討った」ということです。

忠臣蔵」とは、赤穂事件を題材にした人形浄瑠璃や歌舞伎で「仮名手本忠臣蔵」として人気を博した物語をいいます。大石内蔵助の「蔵」に忠臣がいっぱい詰まっているという感じですね。

これは「三国志」と「三国志演義」の関係と同じです。

歴史的事実=赤穂事件・三国志

物語的虚構=忠臣蔵・三国志演義

大石内蔵助を中心とした赤穂四十七士の「松の廊下での刃傷から討ち入り・切腹まで」の物語は繰り返し小説や映画で取り上げられています。それだけ日本人の琴線に触れた物語だということでしょう。

何故浅野内匠頭は吉良に切りつけたのか。「浅野内匠頭がわいろを断ったため、彼を苛めた吉良」に対して勘忍袋の緒が切れたのでしょうか。今となっては定かではありませんが、それだけ作家の想像力を駆り立てるところがあるのでしょうね。

忠臣蔵の物語は、「忠義」だけではなく、「幕府及び幕府高官への抵抗」の側面があることも人気の理由ではないでしょうか。将軍徳川綱吉は「生類憐みの令」で人間より動物を大切にしました。犬を大切にするのは悪いことではありませんが、「人間より」というところが問題です。幕府への不満が溜まっているところへ、この大事件が起こり、赤穂浪士の幕府への抵抗の姿勢が人々の気持ちをとらえたのでしょう。

浅野が吉良を切りつけた原因が何であれ、喧嘩両成敗という幕府の法がありながら、吉良にはおとがめなし、浅野だけ即日切腹という片落ちの裁定が赤穂浪士の討ち入りの原因だと思います。幕府が誤った判断をしたことに対しての異議申し立てが討ち入りなのです。赤穂浪士にとっては、吉良が悪人であろうと善人であろうとあまり関係がなかったのだと思います。結局吉良家お取り潰しという「喧嘩両成敗」になったので、赤穂浪士の討ち入りは大成功に終わったと思います。

近頃吉良へ同情する意見もありますが、私の祖父母が赤穂出身なので、私は赤穂浪士の味方です。

私のご先祖(?)「矢頭右衛門七」の物語もいいですよ。(小名木善行さんによる) もうひとつくすやさん(もりいくすおさん)の右衛門七もあります。

「忠臣蔵」に関しての以前の記事も読んで下さい。

元禄文化

江戸時代では2つの文化を覚えましょう。

元禄文化・・・上方(京都・大阪)中心の町人文化

化政文化・・・江戸中心の町人文化

ここでは元禄文化です。

・文芸・・井原西鶴(浮世草紙)・・松尾芭蕉(俳諧・紀行文奥の細道)・・月日は百代の過客にして・・・

・芸能・・近松門左衛門(人形浄瑠璃)・・市川団十郎・坂田藤十郎(歌舞伎)

・絵画・・菱川師宣(浮世絵・見返り美人図)

・その他・・年中行事が広まる(正月の雑煮・節分の豆まき・ひな祭り・こいのぼり・盆踊りなど)

早英ゼミナール 塾長 矢頭嘉樹

塾で教える日本の歴史 ⑰ 江戸幕府の誕生(江戸時代 1)

「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 すわりしままに食うは徳川」

これは江戸時代の落首(風刺歌)で、
織田信長が餅をつき、ついた餅を羽柴(豊臣)秀吉がこね、できた餅を何もしなかった徳川家康が座ったままそれを食べた。ということで信長が苦労して乱世を終息させようと天下統一事業を進め、それを受け継いだ秀吉がやっと天下を統一し、家康が何の苦労もなくそれを引き継いだということです。先人が苦労して築いたものを、家康がやすやすと簡単に手に入れたと詠んでいるものですが、家康を過小評価しているものでしょう。江戸時代260年間がどんなに平和だったか、明治時代と比べてみるとよく分かります。江戸時代が本当はどんな時代だったか、これから見ていきましょう。

関ヶ原の戦い

豊臣秀吉の死後、幼少の秀頼とその母淀殿が残されました。

信長の妹「お市の方」は戦国一の美女とされていますが、お市と浅井長政の間に有名な3姉妹がいます。

長女が「茶々」後の「淀殿」、秀吉の側室で「大阪冬の陣・夏の陣」で家康によって自害に追い込まれています。次女が「お初」で、京極高次の正室となっています。また3女の「お江」はNHK大河ドラマ「お江〜姫たちの戦国」で主人公にもなっており、徳川2代将軍「秀忠」の正室であり、3代将軍「家光」の母になっています。次女が「お初」というので、茶々が本当に長政の長女なのか、追求したいところです。

さて秀頼が幼少だったため、政治は「秀吉が任命した武断派の五大老」と「秀吉子飼いの官吏・五奉行」の合議制で進みました。

しかしながら五大老の1人徳川家康の力が抜きんでて、秀頼をないがしろにしたことなどから、五奉行の1人「石田三成」が立ち上がりました。

こうして全国の大名は、1600年、三成を中心とする西軍と家康率いる東軍が、日本の真ん中である岐阜県の「関ヶ原」で天下分け目の戦いを行ないました。関ヶ原の戦いです。

関ヶ原の戦い武将たちの兜の独特さも目を引きます。石田三成の「総髪天頂脇立」や黒田長政の兜、それに大谷吉継の「白頭巾に仮面」が有名ですね。

大谷吉継といえば、石田三成との友情が泣かせます。吉継は「ハンセン病」でした。当時は特効薬がなく、吉継の顔は崩れていたようです。それで頭巾を被っていたのですね。ある時大阪城で茶会が催され茶碗を回し飲みしていました。吉継が自分の番になった時膿が茶碗の中に落ちてしまいました。しかしそれを見ていた三成は知らぬ顔でぐいと飲みほしてしまったといいます。吉継は三成に感謝し関ヶ原でも劣勢の三成側についたということです。

決着は予想に反して6時間でつきました。どちらが勝ったか知らない生徒は塾生には、まさかいないですよね。

もちろん東軍です。

小早川秀秋の裏切りによって東軍が勝利したといわれています。また秀忠が関ヶ原に遅刻したという話も覚えておきましょう。

 関ヶ原の戦いのごろ合わせは必要ないですね。ちょうど1600年です。

この戦いに勝った徳川家康は、1603年征夷大将軍となり、江戸幕府を開きます。

 「ヒーローおっさん(1603年) 徳川家康」

この時家康は60歳を超えていました。「ヒーローのおっさん」なのか「おっさんのヒーロー」なのかはご自由に。

豊臣家の滅亡

・1605年家康は将軍職を息子の秀忠に譲り、自らは駿府に隠居しました。しかし大御所として政治の実権は譲らず、秀忠を指揮・監督しました。これは将軍職は徳川家で独占し、豊臣秀頼には譲らないということを内外に示したものです。

徳川15代の将軍は、秀忠を除く14人が征夷大将軍と同時に源氏長者に任じられ、没後に正一位を贈られています。またほとんどが、生前または没後に太政大臣まで昇進しています。

秀忠は関ヶ原に遅刻したり(徳川本隊を温存する家康の作戦だったという説もありますね)、正室のお江に頭があがらなかったり、家康から見て、できが良くなかったのでしょうか。(私は好きですが)

大阪冬の陣・夏の陣・・・徳川幕府が成立したものの、大阪城には豊臣秀頼と淀殿がいます。豊臣家を慕う人は依然として多いので、家康は計略を用いて、1614年と1615年の二度にわたり大阪城を攻め、豊臣家を滅ぼしました。この戦いを「大阪冬の陣・夏の陣」とよびます。この戦いでは「真田幸村」の活躍がありましたが、結局淀君と秀頼は自害し、豊臣家は2代で滅亡し、徳川家の天下が確定しました。この時の無慈悲な行動が家康の不人気に繋がっているのでしょう。

豊臣家を滅ぼした家康は翌1616年75歳で死去しました。

・幕藩体制の確立

幕府は1615年「武家諸法度」を制定し、全国の大名を統制しました。

 「大名の 異論以後(1615年)だめ、武家諸法度」

江戸時代の大名とは、将軍から1万石以上の領地を与えられた武士のことで、大名の領地とその支配の仕組みを「藩」といいます。

幕府と藩で全国の土地と人民を支配する政治体制を「幕藩体制」とよびます。

これは大名たちの自治を認める地方分権的な統治システムでした。

藩の力も強いのですから、江戸時代は中央集権ではなく、地方分権であったと考えられます。

大名には3種類あります。

徳川氏一門の大名を「親藩」といい、特に「尾張・紀伊・水戸」を御三家といって、将軍家に後継ぎがいないときにはここから次期将軍が選ばれました。

ただこの中で水戸家は特別で、「もし徳川家と天皇家が争うような事があれば、水戸は天皇家の味方をする」ことになっていたようです。これは徳川家の滅亡を防ぐ保険のようなもので、実際明治維新後も徳川家は存続しました。

最後の将軍「徳川慶喜」が実は水戸藩出身だったというのは何か皮肉ですね。尊王派だった水戸出身の慶喜だから、鳥羽伏見の戦いで官軍と戦うのをためらい逃げ帰ったのでしょうか。

ちなみに御三家以外に御三卿」というのがあって「田安・一橋・清水」の3家で、第8代将軍徳川吉宗が創設しました。慶喜は水戸から一橋家に移っています。

「譜代」は関ヶ原の戦い以前から徳川に従ってきた大名で、大老や老中・若年寄などは譜代に限られていました。

関ヶ原の合戦以後徳川氏に従った大名を「外様」といい、幕政には参加できず、厳しい監視を受けていました。

幕府は外様大名を江戸から遠い地域におき反逆を防いだり、藩を取りつぶしたり、領地がえをおこなったりして大名を統制しました。

幕府の直接の支配地を幕領といい、約400万石ありました。旗本・御家人の領地400万石を合わせると800万石となり、全国3000万石の4分の1以上を徳川家が支配しました。1石というのは、大人1人が1年間に食べるコメの量をいいます。

江戸時代の推計人口は、幕府開設初期が2000万人、幕末で3000万人くらいといいますので、全国3000万石というのはうなづける数字ですね。

江戸幕府の組織は譜代大名から選ばれた老中が政治の中心となり、三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)が政務を分担しました。老中は複数の人が輪番で担当し若年寄が補佐しました。重大局面には1人の大老が選ばれ局面に当たりました。幕末の「井伊直弼」が有名ですね。

大名統制のため第三代将軍「家光」は、「参勤交代」制度を定めました。これは大名に領地のほかに江戸にも屋敷を設けさせ、そこに正室と世継を江戸に定住させ、また大名を1年おきに領地と江戸を往復させるものでした。大名から妻子を人質にとり、江戸屋敷の費用や往復の経済的負担をかけることで、謀反ができないようにするものでした。

 「大名行列 色見事(1635年)」

江戸幕府はまた朝廷(天皇)も「禁中並公家諸法度」で統制しました。

朱印船貿易

徳川家康は当初海外との貿易を積極的に進めていました。

オランダ船「リーフデ号」の乗組員「ヤン・ヨーステン(東京の八重洲の元となった人物です)やウイリアム・アダムス(三浦按針)」を外交顧問としてしていたほどです。

日本船の渡航には「朱印状」を発行し、ルソン(フィリピン)・アナン(ベトナム)・カンボジア・シャム(タイ)などに商人や西日本の大名が貿易に出かけていきました。これを「朱印船貿易」といいます。室町時代の「勘合貿易」を思い出させますね。

朱印船と共に多くの日本人が海外へ移住し、東南アジアの各地には「日本町」ができました。

禁教令

家康は貿易の利益の為キリスト教を認めていました。

しかし「神の教えを絶対とするキリスト教」が全国に広がりを見せ、将軍の権威を認めなかったため幕府はキリスト教を禁じました。幕府がキリスト教を禁止したのは、将軍を認めなかったからだけではなく、中南米の例にあるように布教のあとのヨーロッパ諸国の領土的野心を見抜いていたからでもあるのではないでしょうか。

第二代将軍徳川秀忠は、禁教令を強化し、信仰を捨てないキリスト教徒を処刑しました。

1635年第三代将軍徳川家光は日本人の海外渡航を禁止し、海外に住む日本人の帰国も禁止し、朱印船貿易を停止しました。

島原・天草一揆

1637年、島原(長崎県)と天草(熊本県)の農民とキリシタンは「天草四郎」という少年を大将として一揆をおこしました。厳しい年貢の取り立てとキリシタン弾圧に対しての抵抗でした。幕府は12万もの大軍を送り乱を平定しました。

天草四郎は神の使いとされ、十代半ばの美少年であったので、女性からの人気があったということです。

 島原の 色みな(1637年) きれい 天草四郎

鎖国

鎖国の原因は2つ考えられます。

1つは、キリスト教を禁止し、スペイン・ポルトガルの侵略を防ぐため。

2つ目は、幕府が貿易の利益を独占するためです。とくに西国の大名が貿易の利益で巨大化することを恐れました。

鎖国への道

1612年 家康が幕領にキリスト教禁止令をだす。

1613年 全国にキリスト教禁止令をだす。

1616年 ヨーロッパ船の来航を長崎・平戸に制限する。

1623年 イギリスが平戸の商館を閉じる(貿易が不調のため)

1624年 スペイン船の来航を禁止する。

1633年 奉書船以外の海外渡航を禁止。

1635年 日本人の海外渡航・帰国を全面的に禁止する。

1637年 島原・天草一揆が起こる。

1639年 ポルトガル船の来航を禁止する。

1641年 オランダ商館を長崎の出島に移す。

こうして鎖国政策が完成しました。このような幕府による「禁教・貿易統制・外交独占」の体制を「鎖国」と呼んでいます。

これ以降中国とオランダだけが長崎の出島で貿易を許されました。

オランダはキリスト教の中でもプロテスタントだったので、布教には力を入れていなかったためと考えられています。

 家光は 広く鎖国(1639年) の令を出す

幕府は改宗したキリスト教徒を監視・発見するために「絵踏」を行い、「宗門改」によって、仏教の信者であることを寺に証明させました。

長崎では、役人の前でキリストや聖母マリアの像を踏む「絵踏」は毎年お正月の行事として幕末まで行われました。

鎖国下の対外関係

鎖国下でも、オランダ・中国は長崎での貿易を許されており、世界情勢報告のオランダ風説書・唐船風説書を提出させました。

また朝鮮からは「朝鮮通信使」が将軍の代替わりごとに祝賀のために来日するようになりました。

琉球(沖縄)は独立国でしたが、薩摩藩(鹿児島県)に制圧されました。江戸にも琉球使節は来ましたが、明や清にも朝貢しました。

蝦夷地(北海道)にはアイヌ民族が住んでいましたが、北海道南部を領地とする松前藩がアイヌとの交易を独占しました。

しかしこの交易はアイヌに不利な不公平なものでしたので、不満を持ったアイヌは1669年首長のシャクシャインを中心として戦いを起こしましたが、姦計によりシャクシャインは殺されました。(シャクシャインの戦い

早英ゼミナール 塾長 矢頭嘉樹

塾で教える日本の歴史 ⑯ 英雄の時代(安土桃山時代)

・中国の歴史においては、項羽と劉邦が活躍した「秦の滅亡から漢の誕生」にかけての時代、

そして「漢の滅亡の時代」すなわち「劉備・関羽・張飛そして孔明曹操」の活躍する「三国志」の時代が人気があります。

・日本では「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康」の活躍する「戦国時代から江戸時代にかけての時代、

また「勝海舟・坂本龍馬・西郷隆盛」の活躍する幕末が圧倒的に人気がある時代ですね。

漢の誕生と滅亡、江戸幕府の誕生と滅亡。いずれも激動の時代に人は引き付けられるということだと思います。

歴史は人間が作る・・・そんな言葉がピッタリの3人(織田信長豊臣秀吉徳川家康)の英雄の物語です。

信長…革新的・合理主義者で近世の扉を開いた。

秀吉…農民から身を起して天下を統一した・人たらしの名人・陽気で派手。

家康…狸親爺・ずる賢い・ケチ・陰気で地味。

3人にはこんなイメージがありますが、これでは徳川家康がかわいそうです。徳川260年の平和を築いた創始者です。頭がよく先見の明があり、苦労しているだけに人の気持ちが分かる人ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

こちらの方がいいですね。

信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」
秀吉「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」
家康「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」

「殺してしまえ」と言った信長が裏切りに合い、「鳴かせて見せよう」の秀吉が信長に代わって天下を統一し、最後まで待った家康が長期政権を打ち立てました。

ヨーロッパ人との出会い

1543年ポルトガル人を乗せた中国の「倭寇」の船が鹿児島県種子島に流れ着きました。

この時日本に初めて鉄砲が伝来しました。

鉄砲は戦国大名に新兵器として注目され、各地に広がりました。

まもなく堺(大阪)など各地で「刀鍛冶」によって生産が始められ、日本は世界一の鉄砲生産国となりました。

鉄砲が普及したため、戦い方法が大きく変わり、全国統一が促進されました。

 「鉄砲伝来 以後夜道(1543年)は歩けない」

また1549年にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教を伝えました。

 「以後よく(1549年)拝めキリスト教」

キリスト教は先ず九州各地に広まり、キリスト教徒になる大名(キリシタン大名)も現れました。

1582年には、九州の大村氏・大友氏・有馬氏らのキリシタン大名は「天正遣欧少年使節」をローマ教皇の元へ派遣しました。

また宣教師は教会・孤児院・病院などを造り慈善活動も行ったので、民衆にも広まり、17世紀には信者が30万人にもなっています。

宣教師だけでなく、ポルトガルやスペインの商人たちも日本にやってきました。

彼らは日本に「火薬・時計・ガラス製品・中国の生糸や絹織物」をもたらし、日本からは「銀」が出て行きました。

ポルトガル人やスペイン人は「南蛮人(南からきた野蛮人)」と呼ばれたので、この貿易を「南蛮貿易」といいます。

鉄砲はポルトガルの「ポ」、キリスト教はスペインの「ス」と覚えましょう。

織田信長

武士の中でも人気ナンバーワンはこの人「織田信長」でしょう。

尾張の戦国大名だった織田信長の戦いを時系列で紹介します。

1560年、「桶狭間の戦い」で「今川義元」を破ります。

 「信長に 義元 イチコロ(1560年)桶狭間」

1570年、「姉川の戦い」で朝倉・浅井の連合軍を打ち破りました。

1571年、「比叡山焼き討ち」・・この時代の寺社は武装しており一大勢力でした。今の平和な寺社とは大違いです。

1573年、将軍「足利義昭」を京から追放し、室町幕府は滅亡しました。

 「以後なみだ(1573年)の室町幕府」

1574年、伊勢長島の一向一揆を鎮圧しました。

1575年、「長篠の戦い」・・鉄砲隊を用いて武田勝頼を破った戦いで有名ですね。

信長の政策

・・・武力をもって天下を取るという「天下布武を掲げて全国統一を目指しました。

都に近い琵琶湖のほとりに豪華で壮大な天守閣を持つ「安土城」を築き拠点にしました。(現存していません、残念)

・・・「座」の特権や「市」の税を免除する「楽市楽座」の制度を導入し、関所も廃止したので、商工業が発展しました。

楽市楽座の「楽」は英語の「Free」ですね。「自由・無料」を表します。

・・・その他、仏教勢力を牽制し、キリスト教を保護しました。これは南蛮貿易での利益が目的でした。

1582年本能寺の変・・天下統一を目前に、明智光秀の謀反により京都本能寺で自害しました。

 「信長が 十五夜に(1582年)散る本能寺」

「敵は本能寺にあり」とは光秀の言葉です。

本能寺の変は、明智光秀の単独犯なのか、そうであれば理由は何なのか? 影幕はいるのか? 大きな謎があります。

影幕がいるとしたら、それは誰なのでしょう? 秀吉説・家康説・足利義昭説・朝廷説・イエズス会説、色々な説がありますが、真相はいかに?

豊臣秀吉

いわゆる「中国大返し」「山崎の合戦」で明智光秀を倒し、信長の後継者となったのは、「豊臣秀吉」でした。

さらに秀吉は「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を破り、信長の後継者の地位を固めました。

秀吉は百姓出身から関白にまでなった、日本史上最高の出世をした人物として有名ですね。

はじめは木下藤吉郎という名から、織田信長より「羽柴秀吉」という名前を与えられ、さらに関白就任後には朝廷より「豊臣秀吉」という姓を与えられています。大化の改新で中臣鎌足が藤原鎌足になったことを思い出させます。

ちなみに豊臣秀吉のことを親しみをこめて「太閤さん」と呼びますが、太閤というのは関白を辞めた人のことで史上何人もいますが、普通太閤というと秀吉の事を指します。

・豊臣秀吉の統一事業・・・1583年石山本願寺の跡地に大阪城を築き、1590年小田原城攻めにより北条氏を倒し、信長亡き後8年で全国を統一しました。

・兵農分離・・・農民の反抗を防ぎ、農業の安定をはかるため、武士と農民を区別する「兵農分離」を進め、これにより社会が安定していきました。

・・太閤検地・・・全国の田畑を統一の「石高」であらわし、年貢を確保しました。

・・刀狩・・・農民から刀や鉄砲を取り上げ、農業を安定させました。

 「刀狩、以後は刃物(1588年)禁止だよ」

・経済政策・・・秀吉は多くの領地や鉱山からの利益で権力を強化していきます。

佐渡金山・生野銀山・石見銀山などを開発し、大判・小判など統一的な金貨を発行していきます。

また大阪、京都、堺など重要な都市は直接支配しました。

・宣教師の追放・・・キリスト教の布教が、スペインやポルトガルの侵略政策と結びついていることを危険視し、バテレン追放令を出しましたが、南蛮貿易は奨励しました。

・朝鮮侵略・・・全国統一後の1592年、明の征服を目指して15万の大軍を朝鮮に派遣しました。(文禄の役)

 「秀吉が、異国に(1592年)大軍、朝鮮侵略」

更に1597年には再度出兵しましたが(慶長の役)、1598年の秀吉の病死とともに引き上げました。

朝鮮出兵の目的は定かではありませんが、前項のスペインの侵略に備えて、「明が植民地化される前に日本の支配下に置く目的があった」という説もあります。いずれにせよ日朝双方に大きな傷跡を残し、豊臣家没落の原因ともなりました。

桃山文化

統一政権が出現した安土桃山時代には、権力や富を背景として「豪華壮大」な文化が生まれました。

・天守閣・・・安土城・大阪城・そして世界遺産である姫路城など壮大な城は高くそびえる天守閣を持ち、書院造りが取り入れられ、「狩野永徳」などにより華やかな屏風絵やふすま絵が描かれました。

現在に繋がる白鷺城とよばれる姫路城は1610年徳川家康の命により池田輝政が造営しました。

(私事ですが、私の出身である「姫路東高校」の校舎からは姫路城の姿が拝めました。高校のときはずっと美しい姫路城を見ながら勉強していたわけです。すごいと思いませんか?)

・茶の湯・・・信長・秀吉に仕えた「千利休」が「わび茶」を完成。

かぶき踊り・・・「出雲阿国」という女性が。後の歌舞伎となる「かぶき踊り」で人気を得ました。

南蛮文化・・・南蛮貿易により「パン・カステラ・カルタ・時計」などが伝わり、

また「世界地図・地球儀」や天文学・医学など新しい学問や技術がもたらされました。

活版印刷術も伝えられ、平家物語などが「ローマ字」で印刷されました。

矢頭嘉樹

塾で教える日本の歴史 ⑮ ヨーロッパの発展

4大文明以降の世界史をまとめておきます。

・紀元前8世紀頃・・・ギリシャ文明がおこりました。都市国家(ポリス)で成年男子による民主政治が行われました。

・紀元前4世紀になると「アレクサンドロス大王」によってギリシャは統一され、オリエントの文化とギリシャの文化がまじわった「ヘレニズム文化」が生まれました。「ミロのヴィーナス」や「パルテノン神殿」が有名です。

・紀元前1世紀より・・・ローマ帝国が成立しました。道路・法律を整備しました。「コロッセオ」が有名ですね。

・紀元4世紀にはローマ帝国はキリスト教を国教としました。西ローマ帝国が476年に滅亡し、時代は中世に入ります。

 「死なむ(ん)(476年)西ローマ」

・中世ヨーロッパ

西ローマ帝国滅亡の後ヨーロッパ世界の中心になったのは、キリスト教でした。諸国の王はローマ法王(教皇)を中心とした「カトリック教会」と結びついていました。

中世の特徴は、荘園と封建制度です。これは日本と同じですね。

・4世紀のゲルマン民族大移動を経て5世紀にはフランク王国が建国されましたが、9世紀には3つに分裂します。

イスラム諸国に占領されている聖地エルサレムを取り戻すため、11〜13世紀にローマ教皇は「十字軍」を派遣しました。

1453年には東ローマ帝国が滅亡し中世は終わります。

・イスラム教とキリスト教

7世紀ムハンマドが唱えた「イスラム教」に関しては「3 文明の誕生〜宗教の誕生」を参照してください。

イスラム教はアラビア半島だけでなく、西アジア・北アフリカまで広がり、7世紀には聖地エルサレムを獲得しました。

これを奪い返そうとしたのが「十字軍」です。ローマ教皇は各地の王に呼びかけ、1069年に、第1回十字軍の遠征が行われまたた。

以後、200年にわたって十字軍は何度も派遣されましたたが、聖地回復は、結局、失敗に終わっています。

この結果、ローマ教皇の権威はおとろえましたが、イスラム世界からさまざまな富と刺激がもたらされ、ルネサンスにつながることとなりました。

・ルネサンス

ヨーロッパ世界の発展は、このように「イスラム世界」との接触にあります。

古代ギリシャの哲学や科学がイスラム世界で保持されており、忘れられていたギリシャ・ローマの文明が再びヨーロッパにもたらされました。

これを「文芸復興(ルネサンス)」と呼びます。

ルネサンスではキリスト教だけではない、人間性を表現する美術が盛んになりました。「レオナルド・ダ・ビンチ」の「モナリザ」が有名ですが、他にも「神曲」の「ダンテ」・「ミケランジェロ」・「ラファエロ」・「ボッティチェッリ」・「エルグレコ」等の芸術家が活躍しました。

また地球球体説に基づく世界地図や羅針盤ができ、天文学・地理学のような科学が発展しました。

ルネサンスは15世紀のイタリアで最も盛んになりました。

・宗教改革

キリスト教もルネサンスの影響を受けます。キリスト教には人が罪を犯しても教会で懺悔すれば許されるという考え方があります。また人間には生まれながらに持つ「原罪」というものもあります。聖書による最初の人間「アダムとイブ」が犯した罪です。

16世紀にローマ教皇はこの罪を許すあるいは軽減する「免罪符」を販売しました。お金さえ出せば罪が消えるという、この金儲け主義に対し、ドイツのルターやフランスのカルバンが教皇を批判し「宗教改革」をおこします。彼らはカトリック教会に反対し、抗議する者という意味の「プロテスタント」と呼ばれました。

これに対してカトリック教会内部からも教会を立て直そうとする動きもあり、「イエズス会」がその中心にありました。イエズス会は世界中に布教を行ない、日本にも「フランシスコ・ザビエル」のような宣教師が来ました。

・大航海時代

大航海時代とは、15世紀中ばから17世紀中ばまで続いた、ヨーロッパ人によるインド・アジア・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出のことです。

地中海がイスラム世界におさえられていたため、ヨーロッパ人は新航路の開拓を迫られていました。地球が丸いという知識、羅針盤という利器・航海術の発達により、大西洋からアフリカ西海岸を通っていきました。

ヨーロッパ人は「香辛料・絹・宝石」等を求めて、またイスラム教に対抗してキリスト教を布教しようと各国が争って世界に進出していきました。

1,492年コロンブス、アメリカ到達。これまでアメリカ大陸はヨーロッパ人に知られていなかったので、彼はインドに到達したと思っていました。

  「東洋の国(1492年)と思ったコロンブス」

1,498年バスコ・ダ・ガマ、アフリカ南端の喜望峰を通ってインドに到達しました。

1,522年マゼランの船隊、世界一周を達成しました。航路は大西洋→太平洋→インド洋→大西洋。でも彼は途中で亡くなっています。

コロンブスが到達した「アメリカ」には、アステカ帝国やインカ帝国など独自の文明が広がっていました。16世紀にスペインはこれを武力で征服し、滅ぼしてしまいました。まずイエズス会の宣教師が現地でキリスト教を広め、その後軍隊が征服していくという方法でした。この頃のキリスト教は攻撃的であったと言わざるをえません。

このようにしてアメリカ大陸はヨーロッパ人の植民地となり、先住民を奴隷化し、またアフリカから奴隷を輸入していきます。

日本にもヨーロッパからイエズス会の宣教師がやってきました。日本もまたインカ帝国のように滅ぼされていくのでしょうか。時代は「戦国時代」です。

塾で教える日本の歴史 ⑭ 室町幕府(室町時代)

建武の新政

北条氏を滅ぼした後醍醐天皇は、自らが中心となって直接政治を行ないました。これを建武の新政といいます。

後醍醐天皇は天皇や貴族中心の政治を行ない、武士を重んじなかったため、武士の不満が高まり、後醍醐天皇に協力した足利尊氏ではありましたが、源氏の血を引く武士の代表として兵をあげました。これにより建武の新政は2年ほどでくずれます。

 「いざ、斬新(1334年)な建武の新政」 ちっとも斬新ではなかったですけれど。

南北朝と室町幕府

足利尊氏は京都に新たに天皇を立て(北朝)、後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れたので(南朝)、二人の天皇が並び立ちました。

以後約60年続いたこの時代を「南北朝時代」とよびます。

足利尊氏は北朝より征夷大将軍に任命され「室町幕府」を開きました。

 「足利の 一味さわいで(1338年)室町幕府」

室町幕府は執権にかわって将軍の補佐として「管領」をおき、「半済令」や「守護請」など守護の権限を強め全国の武士をまとめていきました。守護は次第に力を強めていき、一国を支配しその地位を世襲するようになると「守護大名」となっていきました。

前の幕府の所在地鎌倉には「鎌倉府」が置かれ、足利氏の一族が「鎌倉公方」として関東を支配しました。

※守護は、守護→守護大名→戦国大名と力を強めていきましたが、江戸時代の「大名」になるとまた力が弱くなっていきます。

足利義満

3代将軍足利義満は京都の室町に「花の御所」を構えたので「室町幕府」と呼ばれます。

「天皇になろうとした将軍?」足利義満で覚えておきたいこと。

南北朝の統一・・・「義満が いざくに(1392年)まとめて南北統一」

日明貿易・・・「倭寇」と区別するため「勘合札」を使ったので「勘合貿易」と呼ばれます。

京都の北山に「鹿苑寺金閣」を造営。

室町時代の民衆の生活

農業では、二毛作が全国に広がり、肥料に牛馬のフンや堆肥を使うようになりました。

農村での自治組織「惣」では、村のおきてを定め団結し、土倉や酒屋を襲って借金の帳消しを求める「土一揆」がおこりました。

1428年の「正長の土一揆」が有名です。 「みんなで いっしょにやろう(1428年)正長の土一揆」

商業では、定期市が広く各地に生まれ、開催日数も増えました。土倉や酒屋(金融業者)は同業者ごとに「座」と呼ばれる団体を作り、武士や寺社にお金をおさめて、営業を独占する権利を得ていました。

応仁の乱と戦国の世

8代将軍足利義政は京都北山に「慈照寺銀閣」を造ったことで有名ですね。

しかし義政の跡継ぎ争いで、細川勝元と山名宗全が介入し、ついに1467年京都を主戦場とし10年にわたる「応仁の乱」がおこりました。

この争乱で室町幕府の力は弱まり、以後戦国時代へと突入します。間違えてはいけないのは、室町幕府自体は1573年に織田信長に滅ぼされるまで続いています。

 「人の世むなし(1467年)応仁の乱」

京都では、武士と農民が一体となって守護大名を倒し、8年間にわたり自治を行なった「山城の国一揆」があり、加賀では一向宗(浄土真宗)が中心に「加賀の一向一揆」がおこり、約100年に渡って自治を行ないました。

 「農民が 意地で反抗(1485年) 山城国一揆」  「意思はハッキリ(1488年)一向一揆」

戦国時代には下の者が実力で上の者を倒す「下剋上」の風潮が広がり、守護大名が倒されたり、成長したりして「戦国大名」が出現しました。

戦国大名は平地に城を作り、家来や商工業者を集めて「城下町」をつくり、独自の「分国法」を定めて領国を支配しました。

歴史ドラマなどで繰り返し登場する「戦国大名」ですが、有名な人だけ紹介します。

北条早雲・毛利元就・島津貴久・今川義元・上杉謙信・武田信玄・・・うしろ二人は「川中島の戦い」で有名です。「天と地と」「風林火山」・・・

都市も発達し、日明貿易や日朝貿易で「博多」や「堺」が自治都市として栄えました。

室町文化

南北朝時代には、南北朝動乱を描いた「太平記」が書かれました。

足利義満の「北山文化」では「鹿苑寺金閣」が有名ですね。

金閣は1階が公家の「寝殿造り」2階が「武家造り」3階が「禅宗仏殿造り」になっています。貴族と武士と禅の融合ということです。

また観阿弥・世阿弥親子による「」が義満や寺社の保護を受け、広く上演されました。

足利義政の「東山文化」では、「慈照寺銀閣」が建てられ、簡素で気品がある文化が発展しました。

銀閣と同じ敷地にある「東求堂同仁斎」は床の間に違い棚があり「書院造」と呼ばれて現在の和室の元になったといわれています。

そのほか、東山文化では「龍安寺の石庭」「雪舟の水墨画」があります。また一寸法師などの「御伽草子」や能の合間に演じられた「狂言」など民衆へ文化が広がっていきました。

矢頭嘉樹

塾で教える日本の歴史 ⑬ 鎌倉幕府(鎌倉時代)

源頼朝

「鎌倉殿」と呼ばれた頼朝は、朝廷から独立した「武士の政権」を目指し、武士たちの領地を保障し、政治に参加させようとしました。

ところが義経は朝廷から冠位を貰うなどしたので、頼朝は義経を追い詰めます。義経は奥州藤原氏のもとに逃れたので、頼朝はこれを滅ぼし全国を軍事支配しました。義経が逃れた奥州藤原氏の拠点「平泉」は2011年世界遺産に登録されています。

鎌倉幕府の成立時期は、今は1185年が一般的です。

国ごとに「守護」を、荘園や公領ごとに「地頭」をおくことを朝廷に認めさせた時期です。

 「いいはこ(1185年)作ろう鎌倉幕府」

また1192年には征夷大将軍に任命されました。

 「いいくに(1192年)作った鎌倉幕府」

鎌倉幕府の機構は、中央に「御家人を統制する侍所」「一般政務を司る政所」「裁判を担当する問注所」がおかれ、地方には守護と地頭がおかれました。

将軍と配下の武士は、主従関係によって結ばれ、将軍は「御恩」として「領地」を与え、配下の武士は「御家人」として将軍に忠誠を誓い、「いざ鎌倉」という言葉のように「奉公」をしました。

このような土地を仲立とする主従関係を「封建制度」といいます。

承久の乱

鎌倉幕府の勢力拡大に対し、後鳥羽上皇は荘園を手中におさめ、西面の武士をおいて朝廷の勢力拡大をはかりました。

白河上皇が「北面の武士」後鳥羽上皇が「西面の武士」です。

鎌倉幕府の第3代将軍「源実朝」が暗殺されると、後鳥羽上皇は、2代執権北条義時を倒そうと兵をあげました。承久の乱です。

 「ひとに ふいうち(1221年)承久の乱」

この時頼朝の妻「北条政子」は頼朝の恩を説いて、武士たちに結束を促しました。

みなの者、よく聞きなさい。頼朝公が朝廷の敵を倒し幕府を開いてこのかた、官職といい土地といい、その恩は山より高く、海より深いものでした。みながそれに報いたいという志はきっと浅くないはずです。名誉を大事にするものは、京都に向かって出陣し、逆臣を討ちとり幕府を守りなさい。」という名演説で御家人がまとまることにより、幕府は後鳥羽上皇を打ち破りました。

演説でいう「逆臣」とは直接に後鳥羽上皇のことではなく、その側近のことですが、後鳥羽上皇は幕府が逆らうとは考えてもいなかったでしょうね。後鳥羽上皇は隠岐島に流されました。

この後幕府は京都に朝廷監視と西国支配のため「六波羅探題」を置きました。六波羅探題は名前がかっこいいと中学生に人気です。

執権政治

鎌倉幕府の将軍源氏は3代で滅びてしまいましたが、これに代わって幕府は藤原氏から将軍を迎えたり(摂家将軍)、皇族から迎えたり(皇家将軍)しました。

しかし幕府の実権は北条氏が握っていきました。

鎌倉幕府の将軍の補佐役は「執権」といい、北条氏が独占していました。摂関時代の「摂政・関白」と同じような状態ですね。

しかし、その執権よりも権力があったのは、「北条氏の長者」つまり「得宗」だったのですから、 

日本の権力構造は「天皇→摂関→将軍→執権→得宗」と五重になっています。

鎌倉幕府の将軍補佐役は「執権」

室町幕府は「管領」

江戸幕府は「老中」というので、間違わないようにしましょう。

また室町幕府は「足利幕府」江戸幕府は「徳川幕府」ともいいますが、鎌倉幕府は「源氏幕府」とはいいません。

源頼朝が創設した鎌倉幕府ですが、桓武平氏の末裔である北条氏が実権を握っていくというのも面白いですし、北条氏が将軍にならなかったのは藤原氏に習ったのかと思ってしまいます。

武士の生活

泣く子と地頭には勝てぬ」ということわざがあるように、地頭は土地や農民を勝手に支配することが多く、地頭と領主の間には争いが度々起こりました。

幕府はこれを裁き、土地の半分が地頭に与えられたり(下地中分)、地頭が年貢を請け負って領主に収めたり(地頭請)しました。

地頭である武士は住居兼砦の機能を持つ「館」を構え、周囲には堀や塀をめぐらし、一族の長である「総領」が中心となって団結していました。

武士は常に馬や弓道などの鍛錬をし、名誉を重んじる「もののふの道」に励みました

彼らは一族の子弟・女子たちに所領を分け与える「分割相続」を原則としていました。 ←テストにでたよ!

当時の家族制度では、女性の地位も比較的高く相続でも男性と同等であり、女性の地頭もいました。

しかし新しい領地を獲得しない限り、こういった分割相続は行き詰りますので、後には崩れていきます。

御成敗式目

1232年第3代執権「北条泰時」は、武家の最初の整った法典である「御成敗式目(貞永式目)」を制定します。

これは、守護や地頭の任務と権限、御家人の争いを裁く基準を定めたものです。

守護の役割は「京都の御所の警備と犯罪人の取り締まり」と定められました。

 「ひとのにいさんに(1232年)なにをする、御成敗式目で裁かれるぞ」(字余り)

鎌倉時代の庶民の生活

農業では、牛や馬が利用され、鉄製の農具が普及し、草や木を焼いた灰が肥料として使われ、米の裏作に麦を作る「二毛作」が行なわれるようになりました。

農民の団結が強まり、和歌山県アテガワショウの農民が地頭の横暴を領主に訴えた訴状が残されています。

寺社の門前や交通の便が良いところでは、定期市が開かれるようになりました。(月に三度の三斎市

同業者の団体「座」・運送業者の「問丸」・金融業者んの「借上」の他、宋銭や為替も使われました。

鎌倉文化と鎌倉新仏教

・和歌集・・・新古今和歌集(後鳥羽上皇・藤原定家)

・説話集・・・宇治拾遺物語

・随筆・・・・方丈記(鴨長明)・徒然草(兼好法師)

・軍記物・・平家物語(琵琶法師)・こちらは源氏物語と違って、源平の戦いを描いた軍記物です。

・歴史物・・愚管抄(慈円)・吾妻鏡(鎌倉幕府の歴史)

・彫刻・・・・東大寺南大門金剛力士像(運慶・快慶)

鎌倉新仏教は開祖と宗派だけでもいいでしょうが、一応特徴や著作も。

・法然・・浄土宗・・専修念仏・・南無阿弥陀仏

・親鸞・・浄土真宗(一向宗)・・他力本願・・悪人正機説(悪人こそ救われる)・・歎異抄・・いっこうに知らん

・一遍・・時宗・・踊念仏・・いっぺんじしゅう

・栄西・・臨済宗・・禅問答(公案)・・えいさいりんさい

・道元・・曹洞宗・・只管打座(ひたすら座禅)・・正法眼蔵・・そうとうどうげん

・日蓮・・日蓮宗・・題目・・南無抄法蓮華経

元寇と鎌倉幕府の滅亡

13世紀初め、中国はチンギス・ハン率いるモンゴル民族に征服され、ユーラシア大陸全域に広がる「モンゴル帝国」が出現していました。

その孫「フビライ・ハン」は都の大都(北京)に定め国名を「元」として、日本に二度に渡って攻めてきました。

元軍は「てつはう」と呼ばれる武器や集団戦法で、騎馬による一騎討ちが主の武士を悩ませましたが、「神風(暴風?)」もあり日本はこれを退けました。

この2回に渡る元の襲来を「元寇」といい、時の執権「北条時宗」以下幕府の御家人の活躍がありました。

 「文永に、元の 意地なし(1274年)舟沈む」 文永の役

 「元軍の 人には言(1281年)えぬ負け戦」 弘安の役

しかしこの元寇が鎌倉幕府滅亡の原因ともなります。

蒙古襲来を機に北条氏は博多に「鎮西探題」をおき、北条氏の家督を継ぐ「得宗」の力が強大となり、「得宗専制政治」を行ないます。

元寇で元軍を退けたものの、敵の領地を奪ったわけではなく、追い返しただけなので幕府には「奉公」にみあう「御恩」で報いることができませんでした。

御家人は多大な犠牲を払ったものの見返りも少なく、また「分割相続」の影響もあり窮乏していきました。

幕府は御家人救済のため、借金を帳消しにする「徳政令」をだしましたが、あまり効果はなく、北条氏への反感が強まりました。

こうした状況で「後醍醐天皇」は政治の実権を朝廷に取り戻そうと、「楠木正成」や「足利尊氏」の力もあり、鎌倉幕府を滅ぼしました。

 「いちみさんざん(1333年)北条氏滅亡」

矢頭嘉樹

塾で教える日本の歴史 ⑫ 武士の誕生と院政(平安時代2)

武士の登場

平将門・藤原純友の乱

10世紀には、律令制度が行き詰まり、班田収授や戸籍制度も維持できなくなっていきました。

地方では、有力な農民が開墾にはげんで領地を広げ、豪族として勢力を伸ばしました。

都では、朝廷の武官が貴族の身辺や屋敷の警護を行い、実力を認められていきました。

このような地方の豪族と中央の武官の交流のなかから、武士がおこったと考えられています。

武士はやがて、従者を組織して武士団をつくりあげるほどに成長していきました。

武士は館を築いて土地の開発を進め、領地を中央の貴族や寺社に寄進して「荘園」とし、その保護を受けて勢力を広げました。

有力貴族の力を背景に税の免除や役人の立ち入り調査を認めない荘園も多くなり(不輸不入の権)中央の収入が減り、政治が不安定になりました。

935年には関東では平将門が、939年には瀬戸内地方で藤原純友が武士団を率いて反乱をおこしました。

この時は朝廷も武士団の力を使って反乱を鎮圧することができました。

この二つの武士の反乱を合わせて「承平・天慶の乱」といいます。いずれも藤原道長が摂政になる前のできごとであるのは覚えておきたいところです。

源氏と平氏

有力武士団の中で天皇の血を引く「源氏」や「平氏」を棟梁として、「武家(軍事貴族)」が大きな勢力を持つようになりました。

「清和天皇」の血を引く清和源氏は東日本に、「桓武天皇」の血を引く桓武平氏は西日本に勢力を広げていきます。

11世紀後半に、東北地方であいついで大きな戦乱がおこりました。これを鎮めたのが源氏の源義家です。こうして、源氏は東日本に大きな力をもつようになったのです。

この戦乱ののち、東北地方では、奥州藤原氏が勢力をもつようになり、約100年間、三代にわたって栄華を極めました。

奥州藤原氏は世界遺産にも登録された「平泉の中尊寺金色堂」や源義経が逃れたところとしても有名ですね。

松尾芭蕉の「奥の細道」でも描かれました。 「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」

武士の定義は難しいですが、平安時代においては「武士とは、朝廷や国衙から職業的な戦士身分と認められた人びと」でありました。

源氏物語の主人公「光源氏」は天皇の子供であり、臣下に下り源氏の姓をいただきますが、どうみても武士ではありませんね。

院政

藤原氏の摂関政治は娘を天皇に嫁がせ、その子を天皇にして外戚として権力をふるうというものでしたが、

藤原氏の皇后に男の子が生まれず、藤原氏との関係がうすい後三条天皇が即位しました。

後三条天皇は、優れた人材を登用する一方、荘園の増加が公領(国衙領)を圧迫しているとして、「延久の荘園整理令」をだし、効果を収めました。

後を継いだ「白河天皇」は、天皇の位をゆずった後も「上皇」となって政治を行いました。

上皇やその住まいは「院」と呼ばれましたので、この政治は「院政」と呼ばれました。

藤原氏の摂関政治は天皇の「母方の祖父」だったのに対し、「院政」では上皇は天皇からみて「実の父親」ということになります。

上皇が出家すると「法皇」とよばれます。

院政が行われるようになったころから「中世の時代」に入ります。

 「白河院、良い ひとやろ?(1086年)」  関西弁ですね。

院政は鎌倉時代の始まりまで、白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇と100年あまり続きました。

上皇は、税の免除などを荘園に与えたので、院の周辺に荘園が集中しました。

保元・平治の乱

院政の時代には、元天皇や上皇・法皇がたくさんいるという状況になってきました。しかし実際に権力があるのは一人ですので、その人を「治天の君」とよびます。

白河上皇は院の権力増大のために武士を側近に取り込み、院の周囲を警備する武士は「北面の武士」と呼ばれました。

さて天皇や上皇の権力争いから「保元の乱・平治の乱」という二つの内乱がおきました。

保元の乱は、崇徳上皇対後白河天皇の争いに、藤原氏・平氏・源氏それぞれが二つに分かれて争い、天皇方が勝ちました。

 「天皇がそろそろ勝っても いいころ(1156年)だ」

負けた崇徳上皇は讃岐に流されました。

崇徳上皇では私の大好きな歌が百人一首に残されています。

 「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」

  「川の流れが速いので岩にせき止められた急流が、2つにわかれてもまた一つになるように、愛しいあの人と今は別れてもいつかはきっと再会しようと思う」

ロマンチックですね。

続く1159年の「平治の乱」は、平氏と源氏の争いで、平清盛が源義朝を破って勢力を広げました。

平清盛

平清盛及び平氏政権で知っておきたいこと

・最初の武家政権であった・・西国の武士を家人にし、地頭に取り立てた。

日宋貿易・・兵庫の港を整備し(大輪田泊)、宋との貿易で利益を得た。

・貴族的性格を持つ政権・・後白河上皇を支援し、娘を天皇の妃にし、藤原氏と同じように外戚として威勢をふるった。

 一族で朝廷の高位・高官を独占した。    

 「平家にあらずんば 人にあらず(平時忠)」

 平清盛は武士で初めて太政大臣になりました。 「平清盛 いい胸毛(1167年)」

源平合戦

栄華を誇った平氏ですが、朝廷を思うがままに動かし、貴族的な振る舞いを見せたため、貴族や武士の反感を買いました。

平清盛に後白河法皇が幽閉されると皇子の「以仁王」が兵をあげ、また武士の支持を集めて源頼朝は関東を統一し、弟の源義経を送って平氏を追い詰めていきます。幼いころ「牛若丸」とよばれた義経は戦いの天才で、一の谷、屋島の合戦を経て「壇ノ浦の戦い」で平氏を滅亡させました。このあたりはテレビや映画で繰り返し映像化されています。源氏は白旗で、平氏は赤旗で戦ったので、今も運動会や歌合戦などでの紅白の起源ともなりました。

平家物語の冒頭は暗唱しておきましょう。

祇園纆舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。

娑羅(しやら)雙樹の花の色、盛者(じやうしや)必衰のことはりをあらはす。

おごれる人も久しからず、只春の夜(よ)の夢のごとし。

たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。」

矢頭嘉樹

塾で教える日本の歴史 ⑪ 平安京(平安時代1)

平安時代はおよそ400年に及ぶ長い時代区分です。

この400年は誰に主要権力があったかで、4つの時代に分けることができます。

8世紀終わりから9世紀後半までを「天皇」の時代

9世紀後半から11世紀後半を「藤原氏」の時代

11世紀後半から12世紀中ほまでを「院政」の時代

そして平安時代の終わりごろは「平氏」の時代といえます。

院政の時代以降を中世とよびます。

天皇の時代

 「なくよ(794年)うぐいす平安京」

このきれいなごろ合わせから平安時代は始まります。

桓武天皇は「強大な力を持つようになった仏教勢力を排除するため」平安京に遷都したといわれています。

これが平城京に比べ平安京に大きな寺院が少ない理由です。

また平城京は、大きな川がなく物資の運搬や水不足に悩まされていたのも遷都の原因です。

平安京は江戸時代終わりまで1000年以上日本の都でした。平安京が千年の都と言われる所以です。今の首都は「東の京」ですからね。

ちなみに京都の人は今も「天皇さんは仮に東京に行かれているので、そのうち帰ってこられる」と考えているようです。

桓武天皇は天皇権力の増大のために「長岡京や平安京の造営」と「東北地方平定」を進めました。

朝廷に従わない東北地方の「蝦夷」に対し、朝廷は「坂上田村麻呂」を「征夷大将軍」に任命しました。

坂上田村麻呂は「丹沢城」を築き蝦夷の英雄「アテルイ」を帰順させました。

勇者アテルイの命を救おうと、助命を桓武天皇に願い出た田村麻呂の願いは届きませんでした。

 「泣くな(797年)将軍田村麻呂」

坂上田村麻呂は京都の有名な「清水寺」を造りました。

平安新仏教

遣唐使と共に唐に渡った「空海」と「最澄」は、人里離れた山奥で厳しい修行や学問に励む「密教」と呼ばれる新しい仏教をおこしました。

空海は、高野山、金剛峯寺で「真言宗」

最澄は、比叡山、延暦寺で「天台宗」を伝えました。

最澄の覚え方  「ヒエー天才」(比延天最)

空海のごろ合わせはまだ考えていませんので、誰か考えて下さいね。

 「高野豆腐 食うかい? 」お粗末・・・・

空海は「弘法大師」ともいわれ、「弘法筆を選ばず」や「弘法も筆のあやまり」などのことわざが残されています。私的には「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」という塾みたいなもの?を作ったので親しみがあります。

一方最澄は「伝教大師」と呼ばれ、比叡山は仏教の東大みたいなものだったでしょうか。

遣唐使の廃止

9世紀には「唐の衰え」と「往復の危険」を理由に菅原道真は「遣唐使の停止」を訴え認められました。

この頃唐は国内が乱れ、安心して学べるような状態ではありませんでした。

また朝鮮と日本との関係も良くなかったので、短い航路が利用できず、危険がいっぱいでした。

 「白紙に(894年)戻した遣唐使」

菅原道真は後に藤原氏の陰謀で、大宰府に左遷され亡くなってしまいます。

しかし道真の怨霊が祟るという噂が流れ、道真は雷の神様として祀られるようになりました。

菅原道真はとても頭が良かったので、現在は「学問の神様」として有名で、

東京では「湯島天神」関西では「北野天満宮」九州は「大宰府天満宮」に祀られています。

是非一度行ってみましょう。

藤原氏の時代(摂関政治)

貴族の中の貴族「藤原氏」はほかの貴族を退けて、娘を天皇の妃にし、その子を次の天皇に立てることで勢力を伸ばしました。

次の天皇にとってみれば「母親の父つまり祖父」であるので影響力があるというわけです。(外戚といいます)

そして天皇が幼い時には「摂政」として、成人すれば「関白」という天皇を補佐する職について実権を握るようになりました。

こういう政治を「摂関政治」とよび、11世紀の「藤原道長」とその子の「頼通」の時に全盛をむかえました。

 「人はいろいろ(1016年)道長摂政」

道長は4人の娘を天皇の妃にし、絶大な権勢を誇りました。

「この世をば わが世とぞ思う 望月の欠けたることも 無しと思えば」

国風文化

遣唐使の廃止により、唐の影響力から逃れ、日本の風土や感情に合った文化が生まれました。

これを国風文化といいます。国風文化は摂関政治の頃最も栄えました。

漢字を変形させた「ひらかな」・漢字の一部を取った「カタカナ」などを「仮名文字」といいます。

仮名文字を利用して国風文化の時代には様々な文学作品が生み出されています。

紀貫之が編集した「古今和歌集」・・最初の勅撰和歌集(天皇の命令で編集された)

紫式部の「源氏物語」・・世界最古の長編恋愛小説。(あはれ)の世界。

清少納言の「枕草子」はすぐれた随筆(エッセイ)です。(をかし)の世界。

紫式部は道長の娘「中宮彰子」に仕え、清少納言は「皇后定子」に仕えていました。

いずれも今でいう「キャリアウーマン」で、とても良いライバルだったようですね。

貴族の住まいは「寝殿造り」と呼ばれる日本風のもので、貴族の男子は「衣冠」「束帯」、女性は「十二単」とよばれる優美な「女房装束」の服装をしました。

美術では「源氏物語絵巻」などなだらかな線を持つ大和絵がこの時代を表現しています。

浄土信仰

摂関時代は「怨霊信仰」が広まり、祈祷を通じて現世利益を求める貴族と強く結び付きました。

一方奈良時代からの仏と神は同一であるとする「神仏習合」も進み、「本地垂迹説」が生まれました。本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、日本の八百万の神々は、実は様々な仏や菩薩が化身として日本の地に現れた権現であるとする考えです。例えば「天照大神」は「大日如来」の化身と考えることです。

末法思想も流行し、念仏を唱えて阿弥陀如来にすがり、死後浄土に生まれ変わることを願う浄土信仰が広がりました。

空也や源信が説き、貴族だけでなく庶民にも広がりました。

藤原頼通の「平等院鳳凰堂」はこの時代の代表的な建築で、10円玉にもデザインされています。

高校生には「大和和紀」が源氏物語を描いた漫画「あさきゆめみし」を薦めるのですが、中学生には早いでしょうね。

大学受験前の高2くらいに読むといいですよ。

矢頭嘉樹

塾で教える日本の歴史 ⑩ 平城京(奈良時代)

平城京

710年天智天皇の娘、元明天皇は唐の長安をモデルにして奈良に平城京をつくりました。

  「なんと(710年)きれいな平城京」

平城京は、朱雀大路を中心に碁盤の目のように道路がはしる本格的な都で、約10万人の人口がありました。唐招提寺・薬師寺・興福寺・そして東大寺など大きなお寺が多いのが平安京との違いです。

710年平城京遷都から794年平安京遷都までの約80年を奈良時代といいます。意外と短いですね。

奈良時代は、藤原氏が勢力を伸ばした時代です。

大宝律令を作った藤原不比等は娘を文武天皇に嫁がせ、

その子聖武天皇にも娘の「光明子」を嫁がせて、天皇家と密接な関係を築きました。

皇族の「長屋王」が政権を握ると、不比等の子4人は策謀によって長屋王を殺しました(長屋王の変)

  「なにくそ(729年)負けるな長屋王」

さて、このあたりの権力争いも大変面白いのですが、それは高校日本史に任せて、聖武天皇の話です。

聖武天皇

聖武天皇と光明皇后は、仏教の力に頼って国を守ろうと、国ごとに国分寺・国分尼寺を、都には東大寺を建て、金銅の大仏(盧舎那仏)を作りました。

この時民衆に布教活動を行なっていた「行基」が大仏建立に協力しました。

仏教の力で国家を安定させようとする考えを「鎮護国家」の思想といいます。

聖武天皇のころの文化を「天平文化」といいます。朝廷は「遣唐使」を度々派遣していたので、天平文化は「仏教と唐」の影響が強いものでした。

また「東大寺の正倉院」には聖武天皇の使用した道具や楽器などの宝物を保管しており、中にはシルクロードを通ってペルシャやインドから伝わったものもあります。

他にも興福寺の「阿修羅像」は今日でも人気があります。

奈良時代では、遣唐使とともに来日し、何度も遭難し盲目になった唐の僧「鑑真」が有名です。彼は「唐招提寺」を建立しました。

 「泣こうよ(754年)鑑真、いや泣かぬ」

三世一身の法と墾田永年私財法

奈良時代には、鉄製の農具が広まり、人口が増加していったため口分田が不足してきました。

そこで朝廷は、723年新しく開墾した土地は三代まで私有を認める「三世一身の法」、743年永久に私有を認める「墾田永年私財法」をだしました。

墾田永年私財法は長いですが、漢字できちんと書けるようにしておきましょう。

 「なにさ!(723年)三世の一身くらい!怒

 「なじみ(743年)の墾田永年私財法

墾田永年私財法の意味は「公地公民」が崩れるということです。

貴族や大きな寺院は農民を使って開墾を行なったり、墾田を買い取ったりして私有地を広げました。

貴族や寺院の私有地はやがて荘園と呼ばれるようになりました。

奈良時代の歴史書と万葉集

9の「神話」のところで紹介した「古事記」と「日本書紀」の歴史書以外に

地方の国ごとに自然・産物・伝説を記した「風土記」や大伴家持がまとめた和歌集「万葉集」があります。

万葉集には天皇や貴族だけでなく農民や防人の歌など4,500首の和歌がおさめられています。

山上憶良の「貧窮問答歌」が有名ですね。

矢頭嘉樹

塾で教える日本の歴史 ⑨ 神話の誕生(古事記・日本書紀)

今ほとんどのテキストでは、日本の神話は教えていません。

国語の文学史の中で記紀について少し触れる程度です。

では小中学生がどこで「日本の神話」に触れるかというと、その機会はほとんどないのだと思います。

私の子供の頃は手塚治虫の「火の鳥」を読んだり、神話の映画を学校で見たりしたものです。

神話を知らない民族は滅びるといいます。

そこで神話が誕生したであろうこの律令国家誕生時期に神話について触れることにしましょう。

「イザナギ・イザナミ」「天照大神」「スサノウのミコト」「ヤマトタケル」などの日本の英雄たちを紹介していきます。

・古事記は712年完成

   「古事記には、うそは書か ないつ(712) もりです」

  天武天皇の意思に発し、稗田阿礼が暗唱していたものを、漢字だけを使って太安万侶が筆録しました。

  神話と神武天皇から推古天皇までの天皇家の系譜を整理した最古の書物です。

・日本書紀は720年成立

      「何を(720年)書こうか? 日本書紀」

  最初の正史で舎人親王が編纂。漢文体で神話と神武天皇から持統天皇までが編年体で書かれました。

ここでは古事記の神話編を紹介します。

イザナキ・イザナミ

混沌から天地がわかれ、神々の地を「高天原」といいました。

最初に「天の御中主の神(アメノミナカヌシノカミ)」など「別天つ神」と呼ばる神々が出現されます。

その後ご夫婦の神々が出現され、最後に現れた男女の神が「伊耶那岐命(イザナキノミコト)」と「伊耶那美命(イザナミノミコト)」です。

イザナキとイザナミは苦労して淡路島始め日本の島々を生み、海の神・山の神・穀物の神など様々な神を生みますが、火の神を生んだことでイザナミは死んでしまいます。イザナキは出雲にあるという「死者の住む黄泉の国」にイザナミを取り返しに行きますが、叶わず戻り九州の日向の地で禊(みそぎ)をされます。

アマテラスとスサノオ

禊(みそぎ)を済ませたイザナキはその後も様々な神を生みますが、最後に尊い三柱(神様は柱と数えます)を生み国造りを完成させます。すなわち、高天原を支配する「アマテラス大御神」・夜の国を支配する「ツクヨミ神」・海を支配する「スサノオ神」です。

このうち「スサノオ神」は乱暴者で父イザナキより追放され、姉の住む高天原でも乱暴を働きます。恐ろしいと思った「アマテラス大御神」は「天の岩屋」の戸を開いて隠れてしまいました。これにより高天原も地上も暗くなり、困った八百万の神々の中からアメノウズメが歌い踊り、その楽しそうな様子からアマテラスも出てきました。

このエピソードは「日食」を彷彿とさせますね。アマテラスは太陽神ですしね。

ヤマタノオロチ

スサノオは高天原を追い出され、出雲に着き、そこで八つの頭を持つ「ヤマタノオロチ」を退治し、「草なぎの剣」を得てアマテラスに差し出しました。

この辺りまるでロールプレイングゲームのようです。ドラクエみたいですね。

大国主命と国譲り

さてスサノオの子孫に「大国主命」がいます。その大国主命には「イナバノシロウサギ」を助けるという物語が残っています。

大国主命はスサノオの後「スクナビコナ神」と協力して「葦原中国(日本のこと)」を造り上げます。

しかしアマテラス大御神より遣わされたタケミカヅチ神の要請により「葦原中国」をアマテラスに譲渡し、自分は幽冥界の主となりました。

国譲りは簡単にはいかなかったでしょうね。

天孫降臨

アマテラス大御神は孫の「ニニギノミコト」を地上におろし、葦原中国を任せました。

この時にアマテラスはニニギニミコトに三種の神器を授けます。すなわち「ヤタの鏡」「ヤサカニの勾玉「草薙の剣」です。この三種の神器は歴代天皇が継承していると伝えられています。

海彦山彦

ニニギノミコトはコノハナサクヤヒメ(きれいな名前ですね)と結婚して、子を産みます。

兄の海彦、弟の山彦の物語が残っています。弟の山彦が神武天皇の直接の祖先です。

聖書にも「カインとアベルという兄弟の確執の話がありますね。

神武天皇の東征

ニニギノミコト以下3代を「日向3代」といい、次に「カムヤマトイワレヒコ」が誕生し、日本の中心である「大和」を目指して東征します。

カムヤマトイワレヒコは熊野の地から「八咫烏」に導かれて大和を平定し、そこで即位し初代天皇「神武天皇」となりました。

九州から大和への東征、何らかの歴史的事件が背景にありそうです。

ヤマトタケル

12代景行天皇の子である「日本武尊(ヤマトタケル)」は父より命じられて、熊襲や東国等全国を平定してまわります。

「草薙の剣(天叢雲の剣ともいう)」を片手に全国を駆け回ったヤマトタケルの足跡は多くの場所に残されています。

最後は現在の三重県で力尽き、白鳥になって飛んで行ったという美しくも悲しい伝説が残されています。

日本の神話は、紹介してきたように「ギリシャ神話」や世界各地の神話に劣らない壮大な物語です。

人間味あふれる神様が、悩み、失敗し、イキイキと活躍しているのが特徴ではないでしょうか。

「ロードオブザリング」などを凌ぐ大長編映画になると思いますよ。

実在の卑弥呼がアマテラスと同一人物なのかどうか、天皇家の祖先はなぜ女性神なのでしょうか?

なぜ子ではなく天孫が降臨したのでしょうか、興味はつきません。

成立当時の皇位継承を調べてみるのも面白いですね。

本を買いあさり、文献を調べだすと立派な古代史マニアです。

矢頭嘉樹

塾で教える日本の歴史 ⑧ 律令国家の誕生(飛鳥時代2)

大化の改新

7世紀初め、隋にかわって中国を統一した「唐」は強大な大帝国でした。

これに対抗するため、日本でも抜本的な国家改造が必要になりました。

蘇我氏は聖徳太子の息子である山背大兄王一族を殺すなど、独裁的な政治を行っていましたが、

これを倒し、新しい国家体制を作ろうと

中大兄皇子(後の天智天皇)は中臣鎌足(後の藤原鎌足)と共にクーデターを起こします。

蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子を倒したこの政変を「乙巳の変」といいます。

その後「改新の詔」をだし様々な改革を行ないます。

この一連の改革を初めて使われた年号をとって「大化の改新」といいます。

  「虫殺し(645)大化の改新」

大化の改新の内容は主に公地公民と国郡制度に班田収授です。

・公地公民・・豪族が支配していた土地と人々は国家(天皇)のものだ、ということです。

・地方を国と郡に整備しなおしました。

・班田収授法・・戸籍と計帳を作成し公地を公民に貸し与えました。

租・調・庸等の税制を整えました。

律令制度の基礎は大化の改新にて整えられたということです。

白村江の戦い

百済は日本と親しい国でしたが、660年新羅と唐の連合軍に滅ぼされてしまいました。

百済が滅ぼされると次は日本が危ないと恐れた中大兄皇子は、百済再興を目指し朝鮮に出兵します。

しかし新羅・唐の連合軍に敗れてしまいます。これを白村江の戦いといいます。

「白村江、ム!無残(663年)日本敗北」

百済という防波堤が無くなった日本は、唐の進軍に備えて大宰府に「水城」西日本の各地に「山城」を築きます。

中大兄皇子は都を滋賀県大津の宮に移し、ここで即位し天智天皇となります。

読み方は「てんじてんのう」です。「てんち」ではありません。

天智天皇は「庚午年籍」という初めての戸籍を作り、内政にも力をいれました。

壬申の乱

天智天皇が亡くなった後、息子の「大友皇子」と天智天皇の弟である「大海人皇子」とが後継をめぐって争いました。

672年、遥か930年後にも天下分け目の戦いが行なわれた「関ヶ原」で両陣営が激突します。

関ヶ原は日本の真ん中ということなのでしょうか。新幹線でこの辺りを通るたび、2つの天下分け目の戦いを思って感概深いものがあります。

戦いは大海人皇子が勝利し天武天皇となり、飛鳥浄御原宮に都を移し、日本最初の律令「飛鳥浄御原令」の作成を命じました。

この古代の後継争いを「壬申の乱」といいます。

「天智の後、無難に(672年)に行かない壬申の乱」

天武天皇の死後、その皇后(天智天皇の娘)が「持統天皇」として即位し、

初の本格的な都「藤原京」や初の金属貨幣「富本銭」を作りました。

大宝律令

天武天皇・持統天皇から8世紀初頭の文武天皇の頃、「日本」という国号や「天皇」の名称を使い始めたとされています。

そして、文武天皇の時701年、藤原不比等らが中心となり、唐の法律にならった「大宝律令」が作られ全国支配のしくみが整います

「天皇も律令制度に慣れ始め(701年)」

「律」は刑罰の決まりで、「令」は政治の決まりをさします。

中央には、行政を司る太政官と祭祀を司る神祇官がおかれ、太政官の元で八省が政務を分担しました。

九州には「大宰府」東北には「多賀城」がおかれ、外交防衛にあたりました。

地方には、国・郡・里が置かれ、役所である「国府」には都から派遣された国司が地方豪族の郡司を指揮して政治を行ないました。

班田収授法

班田収授は、大化の改新後に行なわれ、大宝律令で制度的に整いました。

6年ごとに作られる戸籍をもとに、6歳以上の男女に口分田を与えました。

良民の男子は2段、女子はその3分の2、家人・奴婢には良民の3分の1の口分田が与えられ、死亡すれば国に返させました。

  (6歳で自分の田が貰えると喜んではだめで、税(租)を負担しないといけないわけです。)

租調庸の税制は細かく覚えておきましょう。

租・・・収穫量の3%の稲

調・・・成年男子に、労役の代わりに布を都まで運ばせる(九州は大宰府まで)

庸・・・成年男子に、地方の特産物を都まで運ばせた。

この他、3年間九州の警備をする「防人」や年60日の労働をする「雑徭」もありました。

3%の租というと、現在の消費税より軽いですが、防人や雑徭は厳しいですね。

塾で教える日本の歴史 ⑦ 聖徳太子(飛鳥時代)

6世紀、大和政権は有力豪族による連立政権でした。

地方の豪族が反乱をおこしたり(磐井の乱)、物部氏や蘇我氏が大王の座をねらったり(崇峻天皇暗殺事件)、

安定した政権ではありません。

仏教を認めるかどうかで、蘇我馬子が物部氏を滅ぼしたりもしました。

この争いを和らげようと女性である推古天皇を立て、おいの厩戸王(聖徳太子)が摂政として、

蘇我馬子と協力しながら政権を安定させようとしました。

争いを抑えるために女帝を立てるというのは、卑弥呼を思い出させます。

摂政とは、天皇が子どもであったり女性であるときに天皇のかわりに政治をおこなう人のことです。

天皇が成人しても代わりに政治を行なう役割は関白といいます。

 「ご苦労さん(593)聖徳太子が摂政へ」

厩戸王というのは、太子が「馬小屋」で生まれたことから名づけられたようですが、同じく馬小屋で生まれた「イエス・キリスト」を思い起こさせます。

近年「十七条憲法」が日本書紀の捏造であるという説もあるようです。もしそうであっても聖徳太子としての業績には疑問符がつくかもしれませんが、「厩戸王」という優秀な皇族の存在に変りがあるわけではありません。なのでか高校教科書では「聖徳太子」ではなく「厩戸王(聖徳太子)」と書かれていますが中学教科書では「聖徳太子」のままです。来年中学の教科書が変わるのでどうなっているか楽しみです。

しかし、十七条憲法の素晴らしさからいって、作成者が誰であろうと聖徳太子並のすぐれた人物の業績であることはまちがいありません。するとその人を「聖徳太子」と呼んでも良いのではないでしょうか。つまり「聖徳太子」は実在したのです。

聖徳太子の業績は重要なのできちんと覚えていきましょう。

・冠位十二階制度・・家柄にとらわれず才能ある人物を取り立てました。

・十七条の憲法・・役人の心構えを示したものです。

  第一条に「和」をもって貴しとなすとあります。話し合いが大切ということですね。

  第二条は「あつく三宝を敬え。三宝とは「仏法僧」で仏教の教えを取り入れました。

  第三条は「詔をうけたまわり手は必ずつつしめ」天皇中心の国家を作ろうとしました。

   「十七条憲法、群れ寄る(604)役人数知れず」

・遣隋使の派遣・・「日出るところの天子、書を日没するところの天子にいたす」と対等外交を示しました。

  隋が日本史に登場するのはこのころだけで、あっさりと滅びました。

   「小野妹子らが群れなし(607)渡る遣隋使」

・その他聖徳太子関連では、世界最古の木造建築「法隆寺」・釈迦三尊像・玉虫の厨子などです。

法隆寺ではあのギリシャの「パルテノン神殿」と同じく柱にふくらみのある「エンタシス」という技法が使われていました。

ギリシャ文明と繋がりがあったということですね。

十七条憲法についての注釈

聖徳太子の十七条憲法については、一条から三条までが有名ですが、その名の通り十七条まであります。では聖徳太子はこの憲法で何を言っていたのか、中学生にもわかるように注釈をつけてみました。

今の「日本国憲法」もそうですが、憲法は一般国民に対してというよりは、政治家・官僚・役人に対しての「心構え」であるのが第一義ですね。

第一条 和を大切にし、いさかいをおこさないことを根本としなさい。

      協調の気持ちをもって論議するならば、おのずから道理にかない、どんなことも成就するものだ。

(注) 「和」が「平和の和」だとするならば、日本国憲法九条にも通じるものがありますね。

「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

第二条 あつく三宝を敬いなさい。三宝とは「仏・法・僧」のことである。

      仏の教えに従えばまがった心を正くすることができる。

(注) お経を見ていて気付いたこと。聖徳太子は日本の仏教の第一人者でありました。

第三条 天皇の命令には必ず従いなさい。詔に従わなければ敗れていくだろう。

(注) 武士の世でも朝廷は健在でしたね。

第四条 役人は「礼」の精神を根本に持ちなさい。

(注) 公務員・官僚に道徳心がなければ国が乱れるということ。

第五条 官吏は饗応や財物への欲望を捨て、訴訟を厳正に審査しなさい。

(注) 賄賂などとんでもない。三権分立を守り、裁判所は行政の言うことを聞くのではなく、法と良心に従うこと。

第六条 勧善懲悪は古来よりの良い典である。

(注) 悪は見逃してはいけない。良い行ないは認めないといけない。見て見ぬ振りをしてはいけない。上に媚びへつらってはいけない。

第七条 人にはそれぞれ任務がある。職務を忠実に履行し権限を乱用してはならない。

      事柄の大小に関わらず、適任の人を得られれば必ずうまくいく。

      古の聖王は職に適した人を求めたが、人のために官職を設けたりはしなかった。

(注) よこしまな人間がトップにつけば、災いや戦乱が充満する。

第八条 官僚は朝早く出仕し、遅くまで仕事をしなさい。

(注) 今の公務員はどうなのでしょうか。

第九条 「信」は「義」であり「人の道」の根本である。

      官吏に真心があるならば何事も成功するだろう。

      公務員に真心がなければ、どんなこともうまくいかないものだ。

(注) 「信」とは嘘を言わず、言行が一致すること、欺かないことであり、それが「義」つまり「人間としての正しい道」につながります。

第十条 心の中の憤りをなくし、憤りを表情に出さぬようにせよ。

      人が自分と違うことをしても怒ってはならない。

      自分だけが正しく、人が必ず間違っているとはいえない。だれもが賢く又愚かでもある。

(注) 官僚や政治家だって間違いを認めないといけないですよね。国のやることは絶対正しいなんてことはありません。

第十一条 官僚たちの功績・過失をよく見て、それに見合う賞罰を必ず行ないなさい。

(注) 役人の失敗はお役所ぐるみで隠そうとしてはいないでしょうか。罪を負うべき企業が罰を逃れてはいないでしょうか。

第十二条 役人(政治家)は勝手に人民から税を取ってはならない。天皇だけが主である。

       役人(政治家)は任命されて政務にあたっているのである。

(注) これは本当にそう思います。法律を作る立場であるからといって、勝手に増税がらみの法律ばかり作ってはいけない。

第十三条 いろいろな官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職務を熟知するようにしなさい。

       前のことなど自分は知らないといって公務を停滞させてはいけない。

(注) 勉強していい大学に入って、国家公務員になったからもう勉強はしなくていいなどと思ってはいないでしょうね。国のため国民のために勉強しましょう。

第十四条 官僚は嫉妬の気持ちを持ってはいけない。

       自分より才能があるからといって押さえつけてはいけない。

       聖人・賢者といわれる人がいなくては国を治めることはできない。

(注) 今の日本に「聖人や賢者」はいるのでしょうか? 「地上の星」はどこにあるのでしょうか。(中島みゆき)

第十五条 私心を捨てて公務に向かうのは、官僚の道である。

       私心があるとき恨みの心がおきる。恨みがあると不和が生じる。

       不和が生じると公務の妨げとなる。

       第一条で「上の者も下の者も、協調・親睦の気持ちを持って論議しなさい」というのはこういう心情からである。

(注) 「私心を捨てる」ということは難しいですね。でもその気持ちが大切なのだと思います。

第十六条 人民を使役するにはその時期を良く考えてする、とは昔の人の良い教えである。

       春から秋までは農耕に力を尽くし、人民を使役してはいけない。

(注) 徴兵制なんて、とんでもない。一年の内の時期だけでなく、一生の内の大切な時期も考えて貰いたい。子育て時期にはお父さんもお母さんもある程度仕事から解放してあげたいものです。

第十七条 ものごとは一人で判断してはいけない。必ず皆で論議し判断しなさい。

       重大な事柄を論議する時は、判断を誤ることがあるかもしれない。

       その時皆で検討すれば道理にかなう結論が得られよう。

(注)) これは民主政治のことをいっているようにとれます。第一条と同じく「和をもって貴しとなす」は日本の根本原理なのですね。

(参考)金冶勇「聖徳太子のこころ」

ここまで読んできて本当に感動しました。

1400年前の聖徳太子の言葉は、そのまま現代日本にあてはまります。

日本国憲法の原点は「十七条の憲法」だということがよくわかります。

早英ゼミナール 塾長 矢頭嘉樹

矢頭嘉樹

塾で教える日本の歴史 ⑥ 大和政権の誕生(古墳時代)

3世紀に存在した「邪馬台国」と5世紀の「大和政権」との関係がよくわかっていないのは、4世紀の中国が荒れていたためです。

このころ中国は「五胡十六国」時代で、日本に言及した書物がないので「謎の4世紀」と言われています。

ちなみに「大和朝廷」「大和政権」「「大和王権」「大和国家」と呼び名は色々ですが、同じ意味です。

大王(おおきみ)後の「天皇」を中心に豪族が支える国家のことです。

4世紀末、大和政権は、朝鮮の「伽耶(任那)」と結んで「高句麗」や「新羅」と戦い、負けたようです。

そのことは「好太王(公開土王)」の碑に記されています。

謎の4世紀を経て5世紀には近畿地方を中心に九州から東北地方まで大和政権の力は及んでいました。

この頃大和政権は盛んに古墳(前方後円墳)をつくっていました。

大仙古墳(仁徳天皇陵)はその中でも世界最大級の古墳です。面積ではエジプトのピラミッドをしのぎます。

古墳の周りには「埴輪」とよばれる副葬品が置かれました。

土偶は縄文時代、埴輪は古墳時代のものです。間違わないようにしましょう。

5世紀中国が「南北朝時代」に入り、大和政権は南朝の宋に使いを送っていました。

宋書によると、「讃・珍・済・興・武」の5人の倭王の名が伝わっています。

この内「武」は「埼玉県稲荷山古墳の鉄剣」や「熊本県江田舟山古墳の鉄刀」に記されている

「ワカタケル大王(雄略天皇)」のことと考えられています。

古墳時代は大和政権の統一がすすんだ4世紀から6世紀末の時代区分です。

この間大陸から渡来人が、鉄製の農具や須恵器・漢字・儒教また仏教を伝えました。

「百済から仏教ご参拝(538年)」

だんだん国家の様相が整ってきます。

矢頭嘉樹

塾で教える日本の歴史 ⑤ 国の誕生(弥生時代)

弥生時代

紀元前4世紀ごろ(1説には紀元前10世紀ごろ)朝鮮半島から稲作が伝わりました。

稲作は九州北部に伝わりやがて東日本にまで広がりました。この時代を「弥生時代」と呼びます。

東京大学近くの文京区弥生の「向ヶ丘貝塚」で薄手で堅め・赤褐色の土器が発見され、

発見場所の名前をとって「弥生土器」とよび、そこから「弥生時代」と名付けられました。

弥生時代のキー・ワードは

稲作・金属器(銅剣・銅矛・銅鐸・銅鏡・鉄器など)・石包丁・高床倉庫などです。

代表的な遺跡は、佐賀県吉野ヶ里遺跡・静岡県登呂遺跡です。

稲作が伝わりお米を収穫するようになると、高床倉庫で米を保存できるようになります。

保存力の差とか共同作業での指導力の差がつき、貧富の差や身分の差ができます。

やがてそれが小さな国の出現を見、人々を支配する有力者(豪族)や王が現れました。

弥生時代には日本には文字がなかったので、遺跡以外にこの時代の様子を伝えるものは、中国の歴史書しかありません。

漢書地理志(紀元前1世紀)・・倭には100余りの国があり、楽浪郡を通じて漢に使いを送っていた。

後漢書東夷伝(紀元57年)・・倭の奴国王が後漢に使いを送り金印を授けられる「漢倭奴国王」印

邪馬台国

魏志倭人伝(3世紀)

後漢が滅び、中国は有名な三国時代に入ります。

劉備・関羽・張飛・孔明・曹操など、男の子の方がゲームで良く知っているかな?

統一王朝がなく、魏呉蜀に分かれて戦った「三国志」の曹操の国「魏」です。

日本の戦国時代や幕末と同じで、戦乱の世の方が面白いのはしょうがないですよね。

是非「三国志」は読んでみましょう。本当に面白いですよ。

ここで始めて日本人の固有人物名が登場します。邪馬台国の女王「卑弥呼」です。

卑弥呼の時代と三国志の時代が同じなのは面白いですね。

卑弥呼はまじないで国を治め、30あまりの国を従えていました。

魏に使いをだし「親魏倭王」という称号と金印、銅鏡100枚を授けられました。

「文くれ(239)と卑弥呼が使いを魏に送る]

邪馬台国があった場所については近畿説と九州説に分かれて、今なお決着がついていません。

「箸墓」が卑弥呼の墓だという説もあり、

近畿地方にあったとすれば、後の大和朝廷(大和政権)と深いつながりがあるのかも知れませんが、わかっていません。

君たちが大学で研究して結論をだしてくれたら、うちの塾も有名になるかも(笑)

矢頭嘉樹

塾で教える日本の歴史 ④ 日本の誕生(縄文時代)

これからやっと日本史です。

ですが日本史の最初の方は、中国との関係が重要です。

先ず中国史をまとめておいて、日本と中国との関係を見ていきましょう。

中国は日本と違い、王朝自体が変わるので国名が変わっていきます。

日本は当初「倭」と呼ばれていましたが、これは中国が呼んだ国名です。

「邪馬台国」も中国の資料「魏志倭人伝」にあるから、そう呼ばれているわけですね。

4大文明のところで「黄河文明」がありましたが、このときは「殷」という国名です。

国名というより「王朝」といった方がよいでしょう。

殷・周・春秋戦国・秦・漢・三国・南北朝・隋・唐・宋・元・明・清・中華民国・中華人民共和国です。

中学生は隋から覚えれば充分です。

ズイ・トウ・ソウ・ゲン・ミン・シンと声に出して覚えていきましょう。

殷が周に滅ぼされ、周の力が弱くなると戦乱の時代に入ります(春秋戦国時代)

このころ、孔子は「人間の行いや政治は思いやり(仁)と正しい行ない(礼)が大切である」と考え、儒教のもとを作りました。

孔子の考えは弟子たちによって「論語」にまとめられています。

論語に「温故知新」という言葉がありますが、歴史を学ぶ意味が凝縮されているような言葉ですね。

現在の日本でも「論語」は広く読まれていますので、一度目を通しておきましょう。

紀元前3世紀に「秦」の「始皇帝」が初めて中国全土を統一し「皇帝」を名のります。

初めての皇帝なので「始皇帝」ですね。皇帝は王より上位であるとされます。

始皇帝は北方民族の侵入を防ぐため「万里の長城」を築きます。

この万里の長城は、宇宙からも見える唯一の人工建造物だといいます。

始皇帝の墓のそばには約7000体の「兵馬俑」とよばれる焼き物の人形が置かれ威容を示しています。

始皇帝の厳しい政治に対し反乱がおこり、秦はわずか15年で滅びます。

かわって中国を統一したのは「劉邦」率いる「漢」の国です。

秦の滅亡から漢の成立までは、司馬遼太郎著の「項羽と劉邦」に詳しいので読んでみましょう。

中学生にはちょっと早いかもしれないので、少年少女向けの物語も面白いですよ。

「四面楚歌」という故事成語は知っているでしょうか。

漢は400年以上続き「シルクロード(絹の道)」を通じて絹織物などが西方にもたらされ、

西方からは「馬・ぶどう」インドからは「仏教」が伝わりました。

日本の誕生

中国は王朝名ですが、日本は王朝名ではなく、時代区分で覚えていきます。

縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸・明治・大正・昭和・平成と続きます。

奈良時代以降を「NHKMAE」と覚えましょう。

N(奈良)H(平安)K(鎌倉)M(室町)A(安土桃山)E(江戸)ですね。

旧石器時代

数万年前まで日本列島はユーラシア大陸と地続きでした。

なので日本でもナウマンゾウやマンモス・オオツノジカなどの化石が発見されています。

旧石器時代の遺跡は「岩宿遺跡」群馬県です。発見者は相沢忠洋。

縄文時代

今から1万年くらい前に氷河期が終わり、氷がとけて海面が上昇し日本列島ができたと考えられています。

このころ日本列島に住む人々は土器を作り始めました。

表面に縄目の模様があるので「縄文土器」と呼びます。

1万年前から紀元前4世紀に稲作が伝わるまでを縄文土器の名前から「縄文時代」といいます。

縄文時代は「磨製石器」を使い始めましたので、「新石器時代」でもあります。

縄文土器・たて穴住居が縄文時代の特徴で、人々は「魚・貝・くり・どんぐり・鳥・いのしし・鹿などを食べていました。

そのゴミ捨て場は「貝塚」と呼ばれます。

アメリカ人モースによって発見された「大森貝塚」が有名ですね。

その他縄文時代の特徴としては、「土偶」があります。

「遮光器土偶」は宇宙人だというのは、トンデモ学説なので、教科書にはないですよ(笑)

縄文時代の遺跡としては青森県の「三内丸山遺跡」が有名です。

縄文時代に食べられていたクッキーのレシピです。

美味しそう。

http://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005310760_00000

矢頭嘉樹

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